〔あおき葬祭コラム〕第88回:仏教の重要人物空海、その生涯(2)

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空海(のちの弘法大師。「お大師さま」とも。幼名は真魚)は、仏教を語るうえで非常に重要な人物です。

この連載では、この空海の歩みと生涯を解説していきます。前回は空海の子どものころの話をいくつか取り上げていきましたが、今回はその続きから話していきましょう。

<齢7歳。賢さと覚悟に根差した祈り>

空海(真魚)がまだ7歳であったころ、彼は自らの足で非常に高い山に登りました。そして危険な断崖絶壁のところで、釈迦如来に祈りをささげたと言われています。

「自分は将来、仏門に入り、その教えを人に広げようと考えている。釈迦如来さまは、一心に祈る人間の前に姿を顕してくださると聞いている。どうか釈迦如来さまよ、私の祈りを聞き届けて姿を顕したまえ。もしこの祈りが届かないのであれば、この身を仏様の供物として奉じる」と願い、そして実際に崖から飛び降りたそうです。

しかし空海(真魚)の身は地面にたたきつけられることはなく、天から舞い降りた天女によって支えられたと言われています[大塚1] 。そして空海(真魚)に、一心に修行を積めば将来的には必ず悟りを開けるであろうと告げたとされています。

空海(真魚)は非常に聡明な子どもであったため、彼の決意を支えるような教育も多くなされました。

空海(真魚)の叔父として阿刀大足という人物がいますが、彼は桓武天皇の子どもの教育係を務めるほどのエリートでした。空海(真魚)はこの叔父から、当時の基本素養であった漢詩や文章の手ほどきを受けています。空海(真魚)はもともと名門の生まれでしたが、このような教育体制もまた、空海(真魚)を空海(真魚)足らしめる要素のうちのひとつとなったのでしょう。


 [大塚1]「一生成仏と釈迦如来が言った」とありますが、現在「一生成仏」で調べると創価学会の話しか出てきません。

創価学会は、扱い的に慎重さを要するので、ここではこの表現は避けました

<18歳で大学に入学、しかし彼はそこを中退する>

子どものころから聡明であり、かつ覚悟と決意に満ちていた空海(真魚)は、それ以降も順調に自らの歩みを進めて行きます。

空海は12歳のときに、讃岐国学に入学します。この讃岐国学は、地方役人を育て上げるための養成機関でした。地方役人であった父を持っている空海からすれば、このような学習期間への入学は、ごく当たり前のものであったと考えられるでしょう。

しかし幼いころから英明であった空海にとっては、この学習期間での学びはそれほど有意義なものではありませんでした。一地方の役人にとどまるには、空海はあまりにも優秀すぎ、聡明すぎたのです。そのため、彼は「(一地方の役人としてだけではなく)国の中核の役人となるべきだ」とされ、上京をすることになります。なお、このときの「上京」とは、今日でいうような「東京へ行くこと」ではなく、「京へ向かうこと」を意味します。

この上京に付き添ったのが、上で挙げた阿刀大足でした。

自らも名前の知れた教育者であった阿刀大足は、国の中心で、歴史や詩を空海に教えていくことになります。

このまま阿刀大足によって育てられ、役人になるための研鑽を積んでいたのならば、空海は国を動かすような役人になっていたと思われます。上京から3年後には彼は大学の明経科(めいけいか。「明経」は科挙の一つとして知られているが、日本では「行政科」と同じ意味で使われている。機関学科のうちのひとつで、高官を養成するための学科)に入学していて、そこで、今でいう「高級官僚」になるための学問を積んでいます。

しかしながら、空海の人生は、10歳の後半になってから大きく変わります。彼は、偶然にとある修験者から密教の教えである「求聞持法(ぐもんちほふ。虚空蔵求聞持法とも書く。虚空菩薩を本尊とする考え方であり、記憶力を増すために行う修行。昔から密教においてよく用いられてきた手法だが、挫折者も多い)」を教えられました。この求聞持法を元に、空海は、奈良県の吉野や四国にまで足を延ばし、山のなかで修行を重ねていくことになります。

幼いころから仏教に惹かれていた空海でしたが、このときから特に仏教への傾倒が顕著になっていったとされています。

このようなことから、空海はもともといた大学を辞めて、僧侶としての道に入ることになります。

そして20歳で僧侶となり、厳しい修行に明け暮れていくことになります。

ここで長く使っている「空海」という名前は、僧侶になった後に得たものです。空海がこの名前を使い始めたときの年齢は、はっきりとはわかっていません。ただ、恐らくは22歳ごろのことであったと思われます。

なお、「空海」という名前の由来は、彼自身の経験によるところからだと考えられています。彼は修業中に、高知県の室戸岬にある洞窟「御厨人窟(みくろど。海蝕洞のうちのひとつであり、御厨洞とも書かれる)」にこもります。そこから出てきたときに、美しい空と海が広がっているのをみて、「空海」と名乗ったという説があります。

「順風満帆に行けば、やがて国を支える官吏になれる」と子どものころから期待を寄せられ、優秀な教育者であった叔父・阿刀大足からの薫陶も受けて育った空海が、「空海」として仏門に入ることは、彼を取り巻く多くの人にとって非常に衝撃的な話でした。

阿刀大足をはじめとする親族は、空海のこのような決断に反対し、「そのような生き方は忠孝に反する」として強く反対されました。しかし彼はこれを振り切り、仏教徒としての人生を歩み始めることとなります。

<唐に派遣される前にも、彼には数多くの実績がある>

多くの人は、空海といえば「唐に派遣された人」というイメージが思い浮かぶことでしょう。

これももちろん決して間違いではないのですが、実際には空海は、唐に行く前にも非常に重要な実績を残しています。

それが、「三教指帰(さんごうしいき)」の執筆です。

これは空海が24歳のときにしたためたものだとされていて、

1.空海自身の自伝と出家の宣言

2.登場人物に、儒教の立身出世を説かせる

3.登場人物に、道教における不老不死のための術を述べさせる

という展開となっています。

またそのなかでは、「仏の慈愛こそがもっとも優れている」「人々はその性質によって、宗教は異なる。しかしそのなかでも大乗仏教が一番良い」「なぜなら大乗仏教は、あまねくすべての人を救うから」としています。

ほかの宗教に比べてとりわけ仏教がすばらしいものであることを説いたこの三教指帰は、空海の代表的な作品ともいえるでしょう。

その後も、空海は修行を続けていきます。

そしてそのなかで、密教の根本経典である「大日経」に触れたとされています。これは全7巻から成り立っているものであり、おそらく7世紀中ごろあたりにインドで成立した経典だと考えられており、空海はこれに触れたのです。なお、この大日経は、現在の奈良県県の久米寺にあったとされています。

しかし今のようにインターネットが発達していない現在のこと、もし空海がさらに研究を進めようと考えるのであれば、やはり現地に自分の足で立ち、わからないことを勉強していく必要がありました。

そのため、彼は遥か海の向こうにある唐の国に強い憧れを抱くようになります。ただ、今とは異なり、簡単に海を渡ることなどできようはずもありません。遣唐使として海の向こうにわたることを夢見ながら、空海は、31歳の年になるまでの時間を過ごさなければなりませんでした(※30歳とする説もあります)。

次回の記事では、遣唐使として唐に派遣された後の空海の足取りを追います。