〔あおき葬祭コラム〕第87回:仏教の重要人物空海、その生涯(1)

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ

仏教はゴーダマ・シッダールタによって開かれた宗教ですが、その後数多くの人物によって進展させられてきた宗教でもあります。
ここではそのうちの1人である「空海」を複数回にわたってとりあげ、その功績と歩みについて取り上げていきます。

初回となる今回は、
・空海とはどんな人か、その概要
・空海の両親と、空海が生まれるときのエピソード
・空海が子どものころに起きたエピソード
をピックアップします。

<まずは知っておきたい、空海とはどんな人? その概略について>

空海という人物の歩んできた歴史を述べる前に、まずは「そもそも空海とはどのような人であったか」の概略を解説していきます。

空海は、平安時代に活躍した仏門の僧侶です。日本における仏教を語るうえで欠かすことのできない人物であり、非常に高い知名度を誇る人物でもあります。

日本にもいくつかの仏教がありますが、空海は「真言宗」の開祖となった人です。真言宗は密教の流れを受け継ぐ仏教の宗派であり、「生きているときに仏さまを信仰し、修行を積んでいくことによって人は救われる」とする「自力本願」の考え方を基本とします。この自力本願の考え方は、「人は阿弥陀仏のお力によって救われるのだ」とする他力本願の考え方をする浄土宗や浄土真宗とはまったく異なるものです(ただ、もちろん、「自力本願の考え方が間違っていて、他力本願の考え方は間違っている」「他力本願の考え方が正しく、自力本願の考え方が間違っている」とはいえません)。
真言を唱えたり、独自の儀式を行ったりすることが特徴である真言宗は、今もなお、深く多くの人の心に息づいています。

空海は、ときに「弘法大師」と呼ばれます。「弘法も筆の誤り」ということわざは、だれもが耳にしたことがあるのではないでしょうか。ことわざになるほどに書に優れた人物であり、日本の三筆(書道において、もっとも優れていると考えられる3人の人物の総称)のうちの1人であり、書道界においても非常に重要な意味を持つ人物でもあります。
ただ「空海=弘法大師」とする説に関しては、異論もあります。たしかに「弘法大師」という称号は空海に与えられたものではありますが、空海は生前は弘法大師とは呼ばれていなかったからです。

空海は835年にその生涯を終えることになり、やがて「弘法大師」という諡(おくりな。貴人が亡くなったときに贈られる名前。本人の生前の功績に絡めたものがつけられる)を得ることになります。ただ、この諡が与えられたのは、921年のことです。つまり空海が亡くなってから85年近く後になってようやく与えられた名前なのです。また、「現在の弘法大師の伝承や伝説は空海自身が生前に成し得た功績とは大きく違い、空想に過ぎないものも多い」ということで、「空海」と「弘法大師」を分けて考える人もいます。
※ここでも、特記すべき事情がない限り、「空海」という表記にのみ統一します。

・空海は真言宗の開祖である
・真言宗とは、自力本願の考え方を基本とする
・空海は非常に著名な書道家だった
・空海=弘法大師とする説もあるが、「弘法大師という諡は空海の死後85年以上経ってから与えられたものであるうえ、弘法大師の伝承は空想の域に達しているものも多いため、空海=弘法大使、とは言えない」とする説もある

このあたりを踏まえたうえで、空海の人生の足跡をたどっていくこととしましょう。

<空海、生まれ出でる~空海の幼少期について>

ここからは、空海が生まれてから亡くなるまでの足跡を段階を追って踏んでいくこととします。

空海が生まれたのは、平安時代である774年のことだとされています。昔の人は、のちに偉人となる人であっても誕生日まではわからないことも多いのですが、空海の場合は生年月日がわかっています。774年の6月15日に、現在の四国の香川県の西部にて生まれ落ちたとされているのです。ちなみに現在も、真言宗のお寺では、「空海さま〇年の生誕祭」などを執り行っています。

空海の父は、管理であった佐伯直田公であったとされています。彼は蝦夷征伐などで名前を挙げた豪族の血を受け継ぐ人でした。また彼の別名である「善通(よしみち)」という名前はお寺「善通寺」の元となり、空海自身もこの地で生まれたとされています。
また、空海の母である玉寄御前(たまよりごぜん。玉依御前とも記す。ここでは「玉寄御前」の表記に統一する)もまた、この香川県の豪族の出だとされています。香川県の阿刀宿禰真足の娘であったと考えられています。
なお、この母である玉寄御前が後年、息子に会うために女人禁制の高野山に登った際に高野山が怒り火の雨を降らせた……という逸話も残されています。空海はこれを鎮めるために、母を山の麓に住まわせたそうです。

今と昔では「名前」に関する考え方が異なります。この時代においては、貴族階級では「幼名」がつけられるのが一般的でした。幼名とは、文字通り、幼いときにだけ用いられる名前です。15~16歳の元服をもって新しい名前がつけられることになるのですが、空海もまた、この「幼名」を持つこととなりました。
空海の子どものころの名前は「真魚(まお)」です。彼は、豪族である父と、豪族の娘である母の愛を一身に受けて育つことになります。
なお、現在でも香川の地には、父親である佐伯直田公と、母である玉寄御前、そして幼き日の空海(真魚)の像が存在しています。

空海(真魚)の出生のエピソードとして、下記のようなものがあることも記しておきましょう。
空海(真魚)を生まれる前に、両親は同じ夢を見ました。その夢とは、仏教の生まれ故郷である天竺(現在のインドあたり)から聖人がいらして、2人の胸のうちに入る……」というものです。これは、ゴーダマ・シッダールタの生まれたときのエピソードと少し似ているかもしれません。ゴーダマ・シッダールタの生みの親であるマーヤー夫人もまた、ゴーダマ・シッダールタを生む前に「天界から舞い降りてきた白い象が、自分の中に入ってくる夢」を見たとされています。

<幼少期の空海のエピソード~両親からの深い愛情と、空海(真魚)の神秘性>

上でも軽く触れましたが、佐伯直田公と玉寄御前の空海への愛情は、非常に深いものでした。
彼らは子どもである空海(真魚)を「貴物(とおともの)」と呼び、大切に育てたといわれています。
この呼び名はもちろん、両親が子どもにかける大きな愛情によるものだといえるでしょう。ただ、空海(真魚)は子どものころから神童として非常に名高く、泥遊びをすれば仏様の形を描き出し、石を積み重ねれば塔婆(とうば。卒塔婆とも呼ばれる。現在は「亡き人の供養のために建てられるもの」と認識されているが、言葉の意味自体は「仏塔」である)となる」と言われていました。
また空海(真魚)は、「仏教の花である蓮華に座して、数多くの仏様と語り合う夢をよく見る」と話していたとされています。

つまりこのころから、仏門に親しみ、その考えを理解していたと考えられるこのエピソードは、空海(真魚)の神秘性を表すものとなっています。

幼いころから数多くの神秘体験をし、仏教の理解を深め、仏教と親しんでいた空海(真魚)はこの後も、元服するまでにさまざまなエピソードを残すこととなります。
このあたりに関しては、また次回としましょう。