〔あおき葬祭コラム〕第66回:献灯とは何か? ろうそくの持つ歴史について

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ

仏壇などに向き合ったときに、私たちは当たり前のようにろうそくを灯します。

また仏教以外でも、神社や教会でろうそくを灯したことのある人もいることでしょう。

今回は「神様や仏様に捧げる灯火」について取り上げていきます。

<「献灯」とはいったい何のこと? その概略と灯火の移り変わり>

古今東西、いずれの時代、いずれの土地においても、「神仏に対して灯火(ともしび。『灯』『燈火』とも。ここでは特段の事情がない限り、『灯火』の表記に統一する)を捧げること」はよく行われてきました。

この灯火は、現在ではろうそく(『蝋燭』『蠟燭』とも。以下、ひらがな表記に統一する)が使われていますが、ろうそくが使われる以前は油皿が用いられてきました。なお現在ではろうそく以外にも、電球タイプのものが用いられることもあります。電球タイプのものは火事につながる可能性がほとんどないため、葬儀の場や仏壇に捧げるものとしてよく使われています。なおこの「電球タイプ」が普及したことで、通夜のときの「寝ずの番」が不要となりました。故人のための灯りを絶やしてはいけないという理由でかつては通夜のときにその明かりを守る寝ずの番が必要でしたが、電球ならば明かりが途絶えることもないため、寝ずの番を務める必要がなくなったのです。

もっとも現在でも、「故人との最後の時間をゆっくり過ごしたい」「明日になれば、『肉体を持つ故人』とは永久にお別れになってしまうので、最後の夜をともに過ごしたい」という願いから、寝ないで故人と語り合う人も見受けられます。このような気持ち自体は決して否定されるべきものではありませんが、「灯火のありよう」が変わったことで、通夜の様子が変わったのも事実です。

また、このような灯火を神仏に捧げることを「献灯(けんとう)」と読みます。

この献灯は、さまざまな宗教でみられます。

<なぜ人は献灯を捧げるのか? それぞれの宗教におけるその解釈の違い>

上記でも述べましたが、献灯の習慣は古今東西、さまざまな時代、さまざまな場所でみられるものです。ただ、その価値観や解釈にはそれぞれ少しずつ違いがあります。

それぞれ紹介していきましょう。

【キリスト教の場合】

キリスト教のろうそくでもっとも有名なのは、クリスマスのときに使われるクリスマスキャンドルでしょう。このときには、白色のクリスマスキャンドルが使われます。白色のクリスマスキャンドルに火を灯すことが、イエス・キリストの誕生を表すといわれています。イエス・キリストの誕生によって暗かった世界に明るい光が差した……ということを表すために、特別なろうそくが使われているのです。

また、礼拝のときなどにもろうそくが使われています。紫色のキャンドルやピンクのキャンドルが使われますが、これは「悔い改めること」「喜びの日々が近づいていること」を表すものだとされています。

キリスト教の場合、燭台に灯される明かりは、「神の威厳」の象徴としても扱われます。キリスト教にはいくつかの宗派がありますが、ろうそくをよく用いるのは、

・カトリック

・イングランド教会

・ルター派

の3つです。

日本でもよく知られているカトリックの場合は特に有名で、2月2日にはまさに「そのもの」の名前である「聖燭節(せいしょくせつ。『聖燭祭』あるいは『主の奉献の祝い』などのように言われることもある)」という儀式があります。このときには、ろうそくの行列が行われます。

またスウェーデンでは、聖ルシアのお祭りのときに、ろうそくの冠をかぶった女性が言葉を紡ぐ……という儀式があります。

【神道の場合】

神道においては、ろうそくの炎は場を清め、魔を遠ざけるためのものだと考えています。不浄を清める役割があると信じられているのです。

神道においては、「心身が清らかであること」を非常に重要視します。仏教ではお寺で葬儀を行うことができますが、神道の場合はできません。これは、神道では「死は穢れである」と解釈するためです。その穢れが神域に及ぶことを避けなければならないため、神社で葬儀を行うことができないのです。また、神道の場合は、喪の儀式に服す間は神棚を封じます。

このようにして、神道では「穢れから身を守ること」を非常に大切にします。

火は、このような穢れを打ち滅ぼし、浄化します。

それ以外にも、「ろうそくの光は供物の一種である」とする解釈もあります。

火は私たち人類の生活に欠かすことのできないものです。「火」という、一種の「文明」が人類にもたらされたことによって、人類は食べ物を調理することができるようになり、寒さから体を守ることができるようになり、暗い夜から逃れることができるようになりました。

このように貴い存在である火は、供物に適していると神道では考えます。

現在のように「電気」が各家庭にいきわたった現在ではあまり重んじられなくなりましたが、かつてろうそくは「照明道具」として使われてきました。

神道においては、「神様に捧げた捧げ物(神饌・しんせん)がよく見えるように」ということで、照明道具としてろうそくを捧げたとする説もあります。

このようなことから、現在でも「正式に参拝する方は、ろうそくを持ってきてください」と案内している神社もあります。

【仏教の場合】

仏教の場合、ろうそくは「故人が迷わずに家に帰ってくることができるように」という願いを込めて献灯をします。盆提灯などに代表されるように、仏教では、「明かり」を目印としてご先祖様が家に帰ってくると考えているのです。そのため、目印としての役割を期待して献灯をするわけです。また、「ご先祖様が、残された家族である私たちのことをよく見えるように」という思いも込められているとされています。

仏教と神道は、もともとは混合して存在していたものでした。

そのため、仏教と神道が分離した今でも、同じような解釈・同じような風習が残っている部分もあります。

「清めのための灯火」という価値観もその「同じような解釈・同じような風習」のうちの一種であり、仏教も神道と同じようにろうそくを「場を清浄に保つためのもの」と考えます。そのため、葬儀の場だけでなく、仏壇にも献灯が行われます。

また仏教では、「明かりとは、智慧のことである」としています。

明かりは煩悩の闇を祓い、心の闇をはらしてくれるものだと考えています。ろうそくを灯すことで仏様に導いていただけるとされているため、昔から積極的に献灯が行われてきました。

加えてろうそくの文化は、仏教の「諸行無常」の概念とも相性が良いものだといえるでしょう。

ろうそくはいずれは燃え尽きます。赤々とした火をたたえていたろうそくも、時間がくれば必ず途絶えます。その有様は、仏教の「すべてのものは変化するし、永遠ではいられない」という考え方に共通しているのです。

もっともこの考えについては、「貧しくとも清らかな魂でもって捧げられたろうそくの光は消えず、裕福でも徳の低い魂でもってささげられたろうそくの光はすぐに消えた」とする説もあります。

ただいずれにせよ、仏教において「ろうそくの光」が大きな宗教的な理由を持つことは事実です。

「献灯」に用いられる道具は、長い歴史のなかで少しずつ変わってきています。

しかし献灯という「灯火を捧げる行い」に多くの人が特別な意味を見出し、おごそかな気持ちで向き合ってきたという事実は変わることはありません。