「仏教がインドで生まれたこと」は、だれもが知る周知の事実です。
しかし現在、インドでは仏教は非常に下火になっていて、「インドの仏教は滅んだ」とまで言われています。
その理由はいったい何なのでしょうか。
なおここでは、インドにおける仏教を特に「インド仏教」としてお話していきます。
<現在のインド仏教の信徒は、インド全体の1パーセント未満ともいわれている>
現在、インドで仏教を信じている人の割合はインド全体の人口からみて1パーセント未満だといわれています。インドの人口のうちの80パーセント近くはヒンズー教(ヒンドゥー教とも。ここでは「ヒンズー教」の表記に統一する)を信仰していて、インドのなかでインド仏教の信徒が占める割合は非常に少ないのが現状です。
また、インドではイスラム教を信じる人の割合が14.2パーセントであり、キリスト教を信じる人の割合が2.3パーセントだとするデータもあります。こちらのデータではもう少し詳しくインド仏教の信徒について言及されていて、それによれば「インドで仏教を信じている人の割合は0.7パーセントである」としています。つまり、キリスト教徒の3分の1以下しかいないのです。
もっとも、「ヒンズー教で『不可触民』とされている人たちは、ヒンズー教ではなくインド仏教を信仰している。そのため、実際にはインド仏教の信徒は1億5000万人を超える」とする説もあります。統計に表れないインド仏教の信徒はかなりの数に上るとする考え方もあるわけです。
ただそれでもインドの人口は13憶6641万8000人ですから、この「1億5000万人」の数字を採用するとしても、全人口の10パーセント近くしかインド仏教を信仰している人はいないということになります。インドが仏教の発祥の地であることを考慮すれば、この数値はいかにも少ないように思われます。
では、なぜインドで仏教はこのような状況に置かれているのでしょうか。それについて、歴史と教義の観点から解説していきます。
<歴史から見るインド仏教の衰退について>
まずは、インド仏教の衰退を歴史的な面から見ていきましょう。
インド仏教は大乗仏教を理論化して中国や日本に伝えるなど、数多くの功績を残しました。
西暦320年ごろ、身分制度の固定化を目的としてヒンズー教と融合したバラモン教を信じるグプタ王朝がインドを統べるようになっても、インド仏教は廃れることはありませんでした。グプタ王朝の時代においては、ヒンズー教+バラモン教の宗教とインド仏教が両立していたことになります。この時代、インド仏教は文化面から見ても大きな発展を遂げることになります。
この時代は非常に長く続き、インド仏教は1000年以上にわたってインドを席巻し続けることになります。
しかしグプタ王朝はやがて分裂、それを制圧するかたちで「ミヒラクラ」という人物が王位につきます。510年~540年ごろにインドを治めたこの王は、シヴァを強く信仰しており、逆にインド仏教を激しく嫌っていました。そのためインド仏教はこの段階で、非常に強い迫害を受けることになります。
それでもインド仏教は完全に死に絶えることはなく、祈祷を中心として残り続けることになります。西暦700年代の終わりごろにかけて起こったパーラ朝はインド仏教を信仰し、それを守り続けます。また800年ごろには密教の中心となるヴィクラマシー寺も建てられました。この段階では、インド仏教はたしかに下火になり信仰されている地域も狭くはなっていたものの、まだ死に絶えてはいなかったのです。
しかしこのような小康状態は、100年ほどしか続きませんでした。西暦900年ごろになると、イスラム教がインドに入り込んでくることになります。これによってインド仏教は徐々に衰退していくことになるのですが、大きな転機となったのが1203年のことで、このときに上記で挙げたヴィクラマシー寺が打ち壊されます。
このときに破壊されたのは、お寺そのものだけではありません。インド仏教を信仰・布教していた僧侶もまたその多くが殺されました。生き延びた僧侶の多くはネパールなどに逃げ延び、インドに残った僧侶はわずか70人程度にすぎませんでした。
このように壊滅的な打撃を受けたインド仏教は、やがて歴史の波にのまれるようなかたちでその影を薄くしていきます。
次の項目でも触れるようにインド仏教の衰退の理由として「教義が難しくなりすぎたこと」なども挙げられますが、それでも、このような破壊行為がインド仏教を追い詰めたことは紛れもない事実だといえるでしょう。
<教義面からみるインド仏教の衰退理由>
歴史のなかでたびたびみられた「既存の宗教の破壊」がインド仏教において非常に大きな打撃となったのは事実ですが、同時に「インド仏教自体の教義」がインド仏教を衰退させる理由になったとみる人もいます。
上でも少し触れましたが、当時のインドではバラモン教とヒンズー教が融合した宗教がはやり始めていました。これらは両方とも「階層」を重んじる宗教であり(※融合した後によりはっきりと体系化したとみる向きもある)、これは権力者にとって非常に都合の良いものでした。
しかしインド仏教ではこのような階級制度はとっていなかったため、階級の高い権力者に逆らうことが「できた」わけです。このような状況はバラモン教とヒンズー教を信仰する人たちにとって、面白いものであるはずがありません。
そのためバラモン教とヒンズー教の信者は、「わかりやすい教義を作ることによって、民衆を惹きつける」という方向に転換することになります。
仏教を少しだけでも学んだことのある人ならばわかるかと思われますが、仏教は非常に難解なものです。今よりもずっと「知識レベルの差」がひどかった時代において、仏教を理解できる人の数は決して多くはなかったことでしょう。より深遠に、より難解になっていったインド仏教は、知識者層だけのものとなり、民衆を置き去りにするものになっていました。
しかしバラモン教とヒンズー教は、「この神様を拝むだけで救われる」というシンプル極まりない教義へと方向転換します。この教義は非常に分かりやすかったため、人々はインド仏教から離れ、ヒンズー教を信仰するようになっていったのです。
またインド仏教は、衰退の過程をたどるなかで、上でも述べたように「祈祷の文化」を取り入れるようになりました。これはヒンズー教の文化でもあり、衰退していくインド仏教をなんとか救おうとするための方策でもあったのですが、これは本来のインド仏教の考え方とはなじまないものでした。「病気を癒したり、子どもに恵まれることを望んだり、お金持ちになったりすることを祈る」というこの祈祷の文化は、仏教における「苦しみの根源からの解脱」と相反するものでした。
つまり祈祷の文化を取り入れることでインド仏教はインド仏教たる教義の根源を失い、自らの教義を捨て去ったと考えられるのです。宗教において「教義」は根幹ともなるものですから、その教義を失ったインド仏教が衰退していくことは、ある意味では自然の流れであったとすらいわれています。
このようにして、インドで生まれた仏教は故郷においてその存在感を失っていきました。
しかし中国や日本に伝わった仏教は、そこで独自の発展を遂げ、広く信仰され続けることになります。