〔あおき葬祭コラム〕第96回:仏教の重要人物空海、その生涯(4)

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日本仏教にとってもっとも重要な人物のうちの1人である空海の歩みについてみていくこの連載では、前回分までとして、「唐に渡り、学びを深くした空海」について取り上げました。

そののち、空海は生まれ故郷である日本に再び帰ってくることになります。

今回の記事では、日本に帰国することに決めたときから、日本に帰国した後の空海の足取りについて解説していきます。

<敬愛する恩師との別れ、恩師が空海にもたらしたもの>

中国で尊敬する師匠「恵果和尚」と出会った空海でしたが、彼との別れは出会いのわずか半年後に訪れます。空海にさまざまな教えを残して旅立つことになる恵果和尚は、空海のために密教経典や曼荼羅、そして数多くの法具を用意していたといわれています。これはすべて、空海が日本に帰るときに持たせるためのものでした。

やがて恵果和尚は、その死の床で、「私の学んだものはすべてお前に伝えたから、早く母国日本に戻りなさい。伝えた教えを元に天皇にお仕えし、民の幸せと、国が平らかであることを祈るように」と伝えたとされています。

現在よりももっと外国に行くことが難しかった時代であったこと、そして何よりも仏教を学ぶためには膨大な時間が必要となることから、空海の唐での滞在期間は20年を見込まれていました。しかしこの師匠の言葉を受けて、空海は帰国を決意します。

空海が唐にわたってから帰国するまでの期間は、わずか2年程度でしかありませんでした。元の予定のわずか10分の1程度の期間しか滞在せずに帰国することになったのです。

なお、この帰国の前に、空海の偉大さを示すひとつのエピソードが生まれることになります。

帰国を決めた空海は、御仏に「恵果和尚より受け継いだこの仏教の教えを広めるために最適な土地があるのであれば、私が日本にたどり着く前にまずはその地を示したまえ」として、手に持っていた三鈷杵(さんこしょ。密教の法具のうちのひとつ。両端に三又などに分かれた突起がついていて、真ん中の部分を握るようになっている。もともとは、仏教の生まれ故郷であるインドで武器として用いられていた)を、日本のある方角に向かい投げ上げました。

果たせるかな、その三鈷杵は、和歌山県の伊都郡の高野山に向かって飛んでいき、その高野山の松の枝で見つかったといわれています。これを見つけた空海は、帰国後、ここに金剛峯寺を建てることになりました。

ちなみにこの金剛峰寺は、今も「高野山真言宗総本山金剛峯寺」として長く存在し続けています。同寺では毎年6月に空海の生誕を祝って「宗祖降誕会(しゅうそごうたんえ)」が開かれています。

なおこのときに飛ばされた三鈷杵は、「飛行(の)三鈷杵」とも呼ばれていて、重要文化財に指定されました。そしてこの重要文化財たる飛行(の)三鈷杵は、その着地地点であった高野山真言宗草本山金剛峯寺で大切に守られています。また、三鈷杵がささった松は「三鈷の松」とされていて、霊験あらたかなものだと信じられています。

<一筋縄ではいかない空海の帰国について>

遠く唐の国で仏教を学び、師の教えによって帰国の途についた空海は、幸いなことに無事に日本にたどり着くことはできました。すでに述べた通り当時の航海技術は決して高くはありませんでしたから、そのなかでも空海が無事に日本の地を踏めたことはそれだけでも幸せなことだったといえるでしょう。

ただ、彼の願いでもあった「天皇にお仕えし、国が平らかであるために祈ること」はしばらくの間は叶いませんでした。なぜなら空海は、現在の九州の博多にたどり着きはしたものの、天皇の元に行くことは許されなかったからです。それどころか、都の地を踏むことすら許されませんでした。

なぜ都に行くことが許されなかったについては諸説あり、はっきりとはわかりません。一説には、「本来は20年の長きにわたって学び続けなければならないのに、わずか2年で帰ってきたこと」が咎められたともいわれています。また、それ以外の説では「情勢が不安定な状況であったためである」ともされています。

なお、空海は帰国の際に、「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」と呼ばれるものを持ち帰っています。これは一種の報告書であって、そのなかに、「なぜ2年で帰ってきたのか」の理由についても記されています。しかしこの「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を以てしても、長きに渡り、空海は上洛を許されなかったのです。

空海が都に上がるまでには、帰国後、実に4年の月日が必要としました。なお、この「4年後の上洛」の許可を出したのはこの年に即位したばかりの嵯峨天皇でした。その後嵯峨天皇は空海の良きサポート役・良き理解者となり、空海の活動を支えていくこととなります。また嵯峨天皇自身も、空海を頼り、その助言を受けていくことになります。

<ついに真言宗をひらく! その前にあった天皇の苦悩とは>

上洛した空海が真言宗を開く大きな契機となったのは、「薬子の変(くすこのへん)」でした。これは、藤原薬子が主犯となって起こした謀であり、嵯峨天皇の廃することを目的としたものでした。この乱は失敗に終わったのですが、そのときに受けた嵯峨天皇の心労は非常に大きかったものと思われます。また、市井の人々も混乱の渦中にありました。

嵯峨天皇は、人々の動揺を治め、広がり続ける不安と混乱を鎮まらせる対策をとることが求められました。そのようなときに、空海が「民の幸せと、国が平らかであること」を叶えるために、新しい仏教が求められていると嵯峨天皇に進言します。

嵯峨天皇はこの進言を了承し、空海は新しい仏教である「真言宗」を日本で広げる許可を得ることになります。

空海と嵯峨天皇の深い関係は、非常に長く続きます。天皇家は長く真言宗に帰依することとなりましたし、嵯峨天皇は空海の学んできたことを知るために空海を自身の側近くに置きたいと考えました。

当時は当たり前に存在していた「怨霊」を鎮めたいという考えもあり、空海は東大寺の別当にも就けられています。このようなことから、真言宗は多くの人に徐々に広まっていくことになります。

なお、816年には空海は嵯峨天皇から高野山を与えられることになります。

このときにも、仏教の不思議さを表すエピソードが残されています。

高野山に入った空海が道に迷ったときに、1人の猟師が彼に声をかけます。先に紹介した「三鈷杵を探しているのだ」と空海が伝えると、猟師は2匹の愛犬に道案内をさせました。道案内された先にあった松の木には空海が投げ上げた三鈷杵が引っかかっていたとされています。このことから、「猟師に見えた人間は、実は神様の化身であったのだ」と解釈されるようになりました。

こんにちを生きる我々現代人は、たとえ宗教に敬意を払っている人であっても、怨霊の概念を持つことは難しいと思われますし、「祈りの力」を以て国の混乱を鎮めようとすること自体に懐疑的な念を抱く人も多いかもしれません。また、空海のエピソードを目にしたとしても、それを完全に「事実」として信じる人は多くないことでしょう。しかしこの時代においては、嵯峨天皇と空海の考え方と行動は、非常に意味のあることだととらえられたと思われます。

高野山にいたった後の空海の歩みについては、本連載の最後の記事である「空海の生涯(5)」で紹介していきます。