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第87回:仏教の重要人物空海、その生涯(1)
仏教を語るうえで欠かすことのできない人物である「空海」は、その人生を仏の教えとともに過ごしました。そして数多くの人を、仏教へといざなった人物でもあります。
その空海の人生をたどるコラムも3回目となったところで、だれもが一度は歴史の授業で習う「遣唐使としての空海」について取り上げていこうと思います。
<遣唐使の歴史~空海、唐に入る>
「遣唐使としての空海」を知る前に、まずは「遣唐使とは何か」について解説していきます。
遣唐使の前身は、「遣隋使」です。長い歴史のなかで、当時の中国は「隋」から「唐」に変わることになりますが、遣隋使・遣唐使が遣わされた理由には大きな変化はありません。
当時の中国は、日本にとってお手本となる国であり先輩であり、洗練された文化を持つ国でした。そのため当時の人々は、この大陸の大国に倣おうと考えました。そしてその文化を自分の目と耳で見聞きした人間を必要としたのです。その結果として出されたのが、遣隋使・遣唐使でした。
また、遣隋使・遣唐使が遣わされた理由はもう1つあります。このころの日本はまだ政情が安定していませんでした。そのため、時の朝廷は、より大きくて強大な後ろ盾を必要としていました。そしてその後ろ盾として選ばれたのが、中国だったのです。
このようにして始まった遣隋使・遣唐使の文化は、非常に長く続くことになります。文献によって多少のゆらぎはありますが、おおむね300年程度の間にわたって、遣隋使・遣唐使が送られることになりました。その数は実に23回にも及びます。
現在でこそたった3時間程度で行ける中国ですが、当時は飛行機などもちろんありませんでした。また、航海技術も船造りの技術も未熟でした。そのなかで大陸に渡るのはまさに命がけであり、難破することも非常に多くありました。非常に多くの人が海で命を落とし、生き残った人々がやっと大陸にたどり着き、そして再度命の危険をおかして日本に多くの文化を持ち帰ってきたのです。
このような命がけの旅を、それでも空海は志、遣唐使として船に乗り込みます。時に空海は31歳、西暦でいえば804年のことでした。なお出航日は7月6日だったとされています。長崎の田浦から出る遣唐使船に乗って、空海ははるか唐の国を目指します。
<上陸も容易ではなかった! 長安にたどり着いたのは、出発してから5か月後のこと>
上では「遣隋使船・遣唐使船の多くが難破した」としましたが、空海の乗っていた船もまた例外ではありませんでした。彼の乗っていた船は暴風雨に飲みこまれ、実に34日間も海を漂流することになります。
そのまま難破して海のもくずとなってしまうかと危ぶまれましたが、幸運なことに、彼らは現在の福州にたどり着きます。しかし彼らは、ここでは上陸の許可を受けられませんでした。当時の福州は遣唐使船を受け入れる準備がありませんでしたし、そもそも遣唐使船がたどり着くような場所でもなかったからです。遣唐使の代表を務める人間は、いくどにもわたり上陸の許可を求めましたが、これが許可されることはありませんでした。
しかし、このような状況を打破したのが空海でした。
空海は、すばらしい達筆で、理路整然と状況を説明します。その文面を呼んだ人間は、ようやく遣唐使船であることを認め、これを受け入れます。ようやく大陸の地を踏んだ空海らは、そこからさらに、長安に向かって旅を始めることになります。
ちなみに、福州から長安(現在の西安市)までの距離は実に2400キロもあるとされています。現在の足でも35日間もかかるほどの遠さだといいますから、当時はもっと遠く感じられたことでしょう。彼らが、唐の都長安にたどり着いたのは12月であり、日本を出発してから実に5か月もの時間が経っていました。
このようにして、命の危険にまでさらされながらも憧れの長安にたどり着いた空海は、「西明寺(さいみょうじ)」に住まうことになります。西明寺は、658年に玄奘(げんじょう)によってひらかれた寺です。
ちなみに玄奘は、日本でもよく知られた「三蔵法師」のことです。中国の小説「西遊記」に登場して、孫悟空や猪八戒、沙悟浄とともに天竺を目指す役割を与えられた人物ですが、三蔵法師という人物自体は実在しています。仏教学者として名を知られているこの三蔵法師がひらいた寺で、空海は学問を積んでいくことになります。
遣隋使・遣唐使として大陸に渡った人間のなかでも、空海は「仏教を学ぶこと」を第一の目的としていた人物だと考えられています。彼は日本にいたときに密教の経典に触れたのですが、その内容を理解するためには阿闍梨(仏教における師。弟子を教えて導く立場にある。軌範師とも呼ばれる)に直接教えを請わなければなりませんでした。このため、彼は唐にわたる決断をしたのです。
こうした目的を持っていた空海に、運命の出会いが訪れます。それが、「恵果和尚(けいかおしょう」との出会いです。
<教え導かれる空海、敬愛する師匠との出会い>
この和尚は、非常に高名な名僧でした。阿闍梨から直接の指導を受けることを夢見ていた空海にとって、彼との出会いは非常に意義深いものでした。ちなみに恵果和尚は「唐神都青龍寺故三朝国師灌頂阿闍梨恵果和尚之碑」として、碑にもその名前が残されています。
恵果和尚は、青龍寺というところにあった僧侶でした。空海が彼を訪ねて行ったところ、恵果和尚は「私は、お前がここに来ることをずっと前から知っていた。しかしなんと遅かったことか」と述べて、空海を迎え入れます。
日本からやってきた空海という一僧侶を恵果和尚は導き、弟子とします。
恵果和尚と空海が共に過ごした時間は、それほど長くはありません。恵果和尚と空海は5月の終わりに巡り合いましたが、恵果和尚はその年の12月には入滅してしまうからです。空海が恵果和尚から指導を受けられた時間はわずか7か月に満たないものでしたが、そのなかで、空海は恵果和尚からすべてのことを教えられたといわれています。
この恵果和尚との出会いは、空海にとって非常に大きいものでした。この教えを抱いて、空海は再び日本に戻るための帰路につきます。遣隋使・遣唐使は、「行くのも大変だが、帰るのも大変」と言われていましたが、空海は無事に再び生まれ故郷である日本に帰ることができました。
当時の彼は33歳、唐で仏教を学んでから2年後のことでした。日本に戻ってきた空海は、中国で学んだもの・得たものを記した書を朝廷に献上します。そして、現在の福岡県にあった「(筑紫)観世音寺」に住まうことになります。しかしここにいた時間は長くなく、3年後には朝廷から上京を命じられることとなりました。
「学問を学ぶために、文字通り、命をかけて大陸への旅に出る」
「上陸してからさらに、2000キロをも旅をして長安を目指す」
「たった7か月の間に、高僧からすべての教えを授けられる」
という、非常にドラマティカルな人生を歩むことになった空海ですが、これは空海の持つ「仏教に対する深い信仰心」「子どものころからずっと続いている高い向上心」などによって成り立っていたのかもしれません。逆に言えば、このように一途になれる人物であったからこそ、後世にまで語り継がれるような人物になったといえるでしょう。
来月の「空海の生涯」では、日本に戻ってきた空海がどのような歩みを見せるのかを解説していきます。