その家を表す紋章である「家紋(かもん)」は、日本にとって非常になじみ深いものです。
お盆も近くなってくる今月は、この「家紋」を取り上げて、3回連続で「家紋の歴史」「家紋の種類」について解説していきましょう。
初回の今回は、
・家紋とはそもそも何か、家紋の意匠について
・海外での家紋の扱いはどのようなものか
・家紋の始まり
について解説していきます。
<家紋とはそもそも何か? 家紋の意匠について>
初回の今回は、「まずはそもそも家紋とは何か」について解説していきます。
日本における家紋は、文字通り、「家の紋章」という意味合いが強いといえます。日本人の家系は先祖代々同じ柄の家紋を受け継いでいて、それを墓石や着物に配してきました。また詳しくは後述しますが、牛車にこれを入れたり、戦国時代の旗にこれを入れたりもしていました。
日本において「家紋」は、「その家がどのような家であるかを識別するための記号」とした意味を持っていました。遠くからでも、「これは〇〇様の家の牛車だ」「これは〇〇家の旗だ」と分かるように、家紋が入れられていたのです。
さて、この「家紋」ですが、家紋のデザインは現在30000を超えると言われています。家紋のモチーフとして頻繁に用いられるものとして「花」「星や月」「動物」がよくあります。詳しいデザインの特徴に関しては次回以降に譲りますが、恐らく日本でもっとも有名な家紋である「葵紋」は、植物のフタバアオイから来ている紋章です。将軍家・徳川家の用いた紋であり、徳川家では「他の家が葵紋を使用することはまかりならぬ」としていました。
ただし、徳川家にとって随一の家臣であった本多家だけは例外であり、徳川家が上記の法を出した後も、本多家のみは葵紋の利用を許されています。これは「もともと本多家の方が元祖だったから」「徳川家と本多家のそれは、同じ葵であってもモチーフとなる植物が違っているから」などのような意見もありますが、いずれにせよ、徳川家が本多家を特別に扱っていたことを示すエピソードでもあります。
<海外における「紋章」と日本における「家紋」の違い>
ここからは、海外における「紋章」と日本における「家紋」の違いについてみていきましょう。
「家紋」と非常によく似たものとして、海外の「紋章」が挙げられます。騎士道や王室を取り扱ったメディアに親しむ人であるならば、一度はこの「紋章」を見たことがあるのではないでしょうか。
日本の「家紋」は、すでに述べた通り、「ひとつの家を示すためのデザイン」として長く使われてきたという歴史があります。
対して海外の「紋章」は、個人であってもそれを持つことが可能でした。ちなみに海外における紋章は、「戦場にあったとき、味方と敵が区別できるように」という理由から発展しています。
また、海外における紋章は、権威を表したり、身分の高さを表したりするものとしても利用されてきました。すべての人が紋章を持てるわけではなく、それを所持することができるのは極めて限定的な範囲に限られていました。
対して日本の家紋は、昔こそ身分の高い人にしか用いられてこなかったものの、やがて家紋という存在が広く認知されるようになってくると、庶民にいたるまでこれを使うようになります。
海外の紋章は非常に細かいルールが決められていて、同じように王の子どもであっても、嫡子となる長男とそれ以外では紋章のデザインが異なっていました。
それに対して日本の家紋は、それほどはっきりした決まりはなく、またデザインも非常にシンプルです。
昔から受け継がれてきた「人や家を識別するための証」としての性質を持つ家紋・紋章は、似たところもたしかにあります。しかしそのデザインの方向性や意味は、大きく異なるわけです。
なお現在海外では、日本の家紋のデザイン性が高く評価されています。たとえばかの有名なルイ・ヴィトンも、日本の家紋をモチーフとして「モノグラム」を作ったとされています。
<日本の家紋のおこり~平安時代の日本の家紋について>
ここまで、「家紋とは何か」「海外の紋章と、日本の家紋」について解説してきました。
ここからは「それではそもそも、日本の家紋はどのようにして出来上がったのか」について解説していきます。
日本の家紋の歴史は、平安時代[大塚1] に端を発しているといわれています。平安時代は非常に長く続き、8世紀後半~12世紀後半までの400年間が「平安時代」とされていますが、家紋が生まれたのはおそらく平安時代の後期に入ってからだとみられています。
平安時代の貴族の移動手段は、主に「牛」でした。牛に車を引かせる「牛車」で彼らは移動していたのですが、上でも述べたように、この牛車に家を表す印を入れ始めたのが家紋のルーツであると考えられています。
ちなみに家紋の研究者のなかには、「そもそも家紋は、礼儀作法のために生まれた文化であった」と考える人もいます。これは「路頭礼(ろとうれい)」と後の世では呼ばれることになる礼儀作法を指しています。
身分制度がしっかり機能していた平安時代においては、牛車同士が行き違おうとするとき、身分の低い家の人は身分の高い家の人に道を譲らなければなりませんでした。身分差が大きい場合は、道を譲るだけではなく、道に平伏して牛車が通り過ぎるのを待たなければなりません。このようなことをスムーズに行うために、家紋がつけられたのだと考えられています。
このような決まりがあった平安時代においては、一目で「身分の高低」を示せる家紋の存在は、身分が低い側にとっても身分が高い側にとっても意味があるものだったのです。
もともと自分たちの家の格や階級を分かりやすく示すためにできたこの「家紋」ですが、やがてその家紋は独自の進化を遂げていきます。華やかに雅やかに暮らすことを良しとしていた平安時代の貴族は、やがてその「家紋」に、デザイン性の良さを求めるようになります。より繊細でより美しく、より人目をひくように……と、家紋のデザインが進化していったのです。また、同時に、「縁起の良いもの」を取り入れたデザインもよく開発されました。たとえば、公家紋の一つである日野流の「鶴」などは、「鶴は千年、龜は万年」のことわざを持ち出すまでもなく、日本においては昔から縁起の良い動物(鳥)のうちのひとつとして数えられています。
次回以降では武士に使われた「武家家紋」について取り上げますが、このような流れで進歩していった公家家紋は、武家家紋に比べて非常に細かく、ち密なデザインに仕上がっています。
たとえば摂関家(五家、公家の最高位)のうちのひとつである近衛家の「近衛牡丹」と呼ばれる公家家紋は、非常に多くの線で描かれており、ソラで描くことはまず不可能なデザインです。
また、摂関家に続く名門「清華家(九家)」の徳大寺家の「徳大寺花菱崩し」もまた、非常に華やかで、かつ非常に複雑なデザインをしています。
もちろん公家紋のなかにもシンプルなものは存在しています。たとえば、羽林家(大臣家に続く価格の貴族)の閑院流などは、「四つ割り菱」と呼ばれる4つの菱型をあわせた非常に簡素なデザインです。しかし「家を示し、家を誇り、より優美に、より美しく」を目指して進歩していった公家紋は、それ以降に続くことになる武家家紋とは大きな違いがみられるのです。
[大塚1]https://kamon-art.com/history/
にはもっと詳しく書かれているのですが、参考URLの条件を満たさないので採用しません