イギリスを統治したエリザベス・アレクサンドラ・メアリー/エリザベス2世/エリザベス女王陛下(以下では「エリザベス女王陛下」の表記に統一する)は、イギリスそのものを象徴する存在でした。
その死は驚きと悲しみを持って多くの人を打ちのめし、その葬儀は非常に大規模なものとなりました。葬儀の様子は世界各国のメディアで報じられ、この日本でも連日にわたってその様子が伝え続けられました。
ただ、この偉大なる女王の葬儀が広く報じられるようになっても、その葬儀を準備した人物の名前はほとんど報じられませんでした。それは、女王が生まれ育ち、そしてその生の終わりを迎えた故郷イギリスであってさえも、大々的に取り上げられることはなかったといいます。
今回は、エリザベス女王陛下の軌跡と、その葬儀を支えたエドワード・フィッツアラン=ハワードという人物について紹介していきます。
<史上最高齢の君主、イギリスの統治者エリザベス女王陛下について>
「イギリスの王族、エリザベス女王陛下」の名前を知らない人はいないでしょう。1926年に生を受けた彼女は、父王の早世を受けて、わずか25歳で「大英帝国」を統べる女王の座に即位することになりました。夫エディンバラ公爵フィリップとの間に3男1女をもうけたほか、数多くの孫・ひ孫に囲まれた人生を送った彼女でしたが、その人生は決して平たんなものではありませんでした。
エリザベス女王陛下は、10代の多感な時期に第二次世界大戦を経験することになります。彼女もまた公務の一環として、後方支援にあたったとされています。
また、彼女はその存命中、世界で最高齢の君主でもありました。96歳で没するまで数多くの公務をこなし、「開かれた王室」を築き上げた人物でもあります。その即位期間は実に70年以上にも及びます。これは歴史上2番目の長さです。
なお歴史上で一番即位期間が長かったのは「太陽王」として知られたルイ14世ですが、彼の場合は4歳という非常に幼い年齢で即位しています。そのため、「実質的な意味で、国を統治した統治者」と考えれば、エリザベス女王陛下が1位となるでしょう。
「現在生きているイギリス在住者のほとんどが、『エリザベス女王陛下』がいない時代を知らず、現在生きているイギリス在住者のほぼすべてが『エリザベス・アレクサンドラ・メアリー』がいなかった時代を知らない」といえば、そのすごさが分かるのではないでしょうか。
<エリザベス女王陛下の葬儀を執り行った人物>
このように多くのイギリス人の精神的支柱であり、また世界においても非常に重要な存在であったエリザベス女王陛下の命の火が消えたのは、2022年の9月8日のことでした。96歳で、イギリスのバルモラル城で彼女は息を引き取ったのです。
もっとも偉大な統治者のうちの一人であるエリザベス女王陛下の死は、世界の人に驚きと悲しみを持って受け入れられました。その死を悼む葬儀への参列者の数は膨大なものとなり、見送るための列は実に10キロ以上にも及んだといわれています。お別れをするための待ち時間は24時間以上になることもあったと報じられており、老若男女問わず、多くの人がその葬儀に参列しました。
ただ、このように多くの人に衝撃を与え、多くの人がその葬儀に参列することになったエリザベス女王陛下の逝去ですが、その葬儀を作り上げた人間の名前を問われれば、答えられる人はほとんどいないのではないでしょうか。
ここからは、このエリザベス女王陛下の葬儀を執り行った立役者である「エドワード・フィッツアラン=ハワード氏(「エドワード・フィッツラン=ハワード」と記すこともある。ここでは「エドワード・フィッツアラン=ハワード」の表記に統一)について解説していきます。
イギリスには世襲貴族の考え方が残っていて、エドワード・フィッツアラン=ハワード氏もまたそのような世襲貴族のうちの1人です。
イギリスの貴族制度の称号は、以下の通りです。
1位 | 公爵 |
2位 | 侯爵 |
3位 | 伯爵 |
4位 | 子爵 |
5位 | 男爵 |
基本的には貴族の地位は世襲制ではありますが、男爵に限っては「一代貴族」という考え方があります。これは国家に貢献した人に特別に与えられるものであり、先に挙げたエリザベス女王陛下など君主が授与するものではありますが、文字通り一代で終わり、次の世代には引き継がれません。
この貴族のなかでもっとも上位にあたる「公爵」の称号を持っている人は、現在は10名しかいません。エドワード・フィッツアラン=ハワード氏はその10名のうちの1人であり、イギリスの貴族制度においてもっとも高い地位に位置する人物です(以下では「エドワード・フィッツアラン=ハワード公爵」と記します)。
エドワード・フィッツアラン=ハワードは2002年に爵位を継いだ人物であり、第18代目のノーフォーク公爵にあたります。
<王室の式典の責任者の血統を引き継ぐエドワード・フィッツアラン=ハワード公爵>
イギリスにおいて、エドワード・フィッツアラン=ハワード公爵の血筋は「王室の式典の責任者」として位置づけられてきました。今回はエドワード・フィッツアラン=ハワード公爵がエリザベス女王陛下の葬儀を取り仕切ることになりましたが、彼よりも前の世代の公爵たちもまた、王室の葬儀や即位式の準備にあたってきたといわれています。その歴史は実に350年ほどにも及び、イギリス王室を影から支える名サポーターとしての役目を代々こなしてきた家柄といえるでしょう。
2002年に公爵の称号を引き継いで以来、エドワード・フィッツアラン=ハワード公爵は「来るべきその日」のために綿密に準備してきたとされています。称号を受け継いだときでさえ20人いたチームは、最終的には280人にまで膨れ上がりました。ただそれであってさえ、決して失敗が許されない国家君主の葬儀を取り仕切ることには、私たちには想像もつかないような苦労があったものと思われます。
また彼が参考にすることができる「1つ前の葬儀」は実に70年も前の1952年の頃のものであり、それをそのまま2022年の現代に持ってくることはできませんでした。たとえば1952年の葬儀はウィンザー城で行われましたが、在位期間の長かったエリザベス女王陛下の葬儀にはより多くの人が参列することが予想されたため、会場はウェストミンスター寺院に変更になっています。
ちなみに彼は2002年からエリザベス女王陛下の葬儀を用意していたのですが、実は葬儀の想定自体はすでに1960年ごろから行われていたといわれています。ちなみにその計画は、その時代には「ロンドン橋作戦」と名付けられていたそうです。
多くの国家元首と国民が集う女王陛下の葬儀を執り行う立場にあったエドワード・フィッツアラン=ハワード公爵は、自らの役目とその準備を、「非常に恐ろしいもの」ととらえていたと伝えられています。しかし65歳の彼は、その重責ある任務をまっとうしました。
そしてそのうえで、この多大な心労と長い準備期間によって成り立った葬儀において、彼は一円の報酬も受け取りませんでした。それは王室を支える貴族としての矜持であったと考えられています。
「エリザベス女王陛下の死」という歴史的な出来事ですが、それもこのように「葬儀を支える人」の立場から見ていけば、またとらえ方も異なってくるかもしれません。