〔あおき葬祭コラム〕第98回:亡き人を思う「供養」、その種類について

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム

仏教に深く関係する言葉として、「供養」があります。

今回はこの供養を取り上げて、その種類について解説していきます。

<ご先祖様に対する供養と、亡くなった人個人に対する供養>

「供養の種類」は、「どのような観点から分けるか」によって大きく異なります。

ただ、まずは「ご先祖様に対する供養」と、「亡くなった人個人に対する供養」の観点から考えていきましょう。

「ご先祖様に対する供養」とは、文字通り、自分の祖先である人に対する供養をいいます。先祖代々のお墓に手を合わせたり、家にある仏壇に手を合わせたり……といったやり方をとられることが多いといえるでしょう。一般的な「お盆の時期のお墓参り」「お盆のときのお迎えの儀式」などは、これにあたります。

対して「亡くなった人個人に対する供養」とは、幅広い「ご先祖様」というくくりではなく、「母親」「父親」「祖父」などのように「1人の個人」を対象としたものです。

たとえば、亡くなった後すぐに行われることの多い初七日法要や、1か月半後くらいに行われる四十九日法要、そして翌年に行われる一周忌法要や初盆がこれにあたります。

もっともこの分け方は、それほど厳密なものではありません。個人に対して仏壇に手を合わせる場合は当然ご先祖様に対しても手を合わせていることになるでしょうし、お盆の時期のお迎えも同じです。ただ、「亡くなった人個人に対して行われる法要」の場合は、儀礼にのっとって行われることが比較的多く、日時も厳密に決めて行われることが多いといえます。

<仏様などに対する祈りからみる供養の種類>

上記では「ご先祖様か、それとも個人に対する供養か」で供養の種類を分けてきました。

しかしこれ以外にも分け方が存在します。

仏教においては、「供養をすることは、徳を積むことにつながる」という考え方があります。私たちは「供養」というと「亡くなった人(ご先祖様や個人)のために行うもの」というイメージを抱きがちですが、実は仏教における功徳を積むためのものでもあるのです。仏教を学び、歩み、功徳を積んでいく方右方のひとつとしても、「供養」はあるといえます。

このような考えに基づいた供養は、以下の3つに分けられます。

・利供養

・敬供養

・行供養

ひとつずつみていきましょう。

・利供養

供養は、「りくよう」と読みます。これは上で挙げてきた「ご先祖さまや故人その人に対する供養」とほぼ同じ性格を持ちます。ただ、「利供養」とした場合は特に、「亡くなった人が愛したものをささげる」という意味合いが強くなります。たとえば、亡くなった人が好んでいたユリの花をささげたり、ご先祖様が好きだったおまんじゅうをお供えしたり、香りのよい線香を仏前に炊いたり……といったやり方を、よく「利供養」とします。

なお現在では、鳥害や虫害を防ぐために、野外墓地でも屋内墓地でも食べ物のお供えを禁じているところがよくあります。その場合は、基本的には食べ物を持参しないようにします。もしくはお祈り前にお墓の前に供え、帰るときには回収するというやり方をとるとよいでしょう。それも難しいようならば、「食品や飲み物をかたどったろうそく」を持参することをおすすめします。現在はこの食品・飲み物ろうそく」も非常に多様化しており、ビールやおすし、野菜、アイス、カラアゲやスイーツなど多種多様な形のものが出ています。ろうそくのろうが溶けていく様は、本当に故人がその食べ物を食べているようにもみえるので、そういう意味でもおすすめです。

・敬供養

「きょうくよう」と読みます。この敬供養は上記の「利供養」とも多少重なるところがあるのですが、利供養が「故人の好きだったものをお供えする」ということに重きを置いているのに対し、敬供養では「手を合わせる」「お経を唱える」などのような行為に重きを置いています。

仏壇やお墓に手を合わせ、お経を唱え、故人のことを思う心がそのまま敬供養になるとする考え方です。また敬供養においては、「お経の意味を学び、お経について詳しくなること」も非常に重要視されています。ご僧侶の唱えるお経だけを漫然と聞くのではなく、自らお経を学び、それを唱えることに意味があると考えているのです。

・行供養

「ぎょうくよう」と呼ばれる供養は、「仏教の修行に励むこと」をいいます。

「仏教の修行」というと、滝を使った荒行であったり、ひたすらに長い時間をかけて行う座禅であったり、質素な菜食で日々を過ごすことであったり、俗世から離れて山にこもったりすることをイメージする人もいるかもしれません。

しかし、私たちが取り組む「修行」はこれほど厳密なものでなくても良いとされています。

たとえば電車で目の前にご年配の方や妊娠している方がいた場合に席を譲ったり、日ごろから親孝行をしたり、優しい言葉を使ったり……といった行動を自らすることが、そのまま修行につながるとされています。

<心の区切りをつけるために~水子やペット、人形に対して行う供養>

上では「ご先祖さまや、亡くなった人故人に対して行う供養」について解説してきましたが、最後に「『ヒト』としてこの世にあったものではないけれど、それでも多くの思いが寄せられている大切な対象に対して行う供養」について取り上げてきます。これらも、時に敬供養などの対象とります。

・水子供養

不幸にも生まれてからすぐに亡くなってしまったり、生まれることなく旅立ったりした子どもに対して行われる供養です。

そのやり方はさまざまで、読経や戒名を伴うものもあれば、その子に寄せたメッセージを寄せる場合などもあります。

ちなみに、「水子供養をしないからといってたたられる」などのようなことは一切ありません。仏教では、「子どもはそもそも純粋無垢なものであり、彼らに恨みや妬みなどはない」としています。

・ペット供養

家族同然に愛していたペットを供養することを、「ペット供養」といいます。ペット供養の方法もさまざまですが、現在はペット用の仏壇を作ったり、ペット用のお墓を作ったりすることもあります。また、樹木葬霊園などのなかには、ペットと一緒に眠ることができるところもよくあります。

もちろんこれらを利用せずに、庭にペットを埋めて手を合わせるだけでも「供養」となるでしょう。

・人形供養

長く一緒の時間を過ごしていた人形やぬいぐるみには、心が宿るといわれています。このような人形を手放すときに行う儀式を、「人形供養」といいます。一般的に「お炊き上げ」という方法が用いられます。

この人形供養はお寺などでも行われますが、葬儀会社や一般社団法人が主催する場合もあります。

いずれの供養も、「これを行わなければ、法律上罰せられる」というものではありません。また、自分が慈しみ、自分を慈しんでくれた存在が、「供養を行わなかったこと」を理由として、だれかにたたるということもありません。ただ、「大切な人や物を思い、労わり、愛してきた気持ち」を整理する意味では、供養という手段は非常に有用です。供養を行うことによって心にひと段落をつけることができるようになりますし、また供養を行っていくことで亡き人と対話し続けることも可能だからです。

このようなことを踏まえれば、供養とは、「する側の心」にこそ寄り添うものだといえるのかもしれません。