〔あおき葬祭コラム〕第63回:聖徳太子と仏教3~聖徳太子の生涯と仏教の伝播をたどる

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ

国の平定と、諸外国との対等な関係の構築を目的として、仏教の普及に努めた聖徳太子ですが、冠位十二階や憲法十七条を制定した後はどのような生涯を送ったのでしょうか。

最終回となる「聖徳太子と仏教3」では、その後の聖徳太子の生涯を追います。

<「日出ずる処の天子」からの手紙>

「日出ずる処の天子」から始まる文面は、その背景を知らない人であっても聞いたことがあるのではないでしょうか。

これは聖徳太子が当時の中国(隋)の皇帝に送った手紙のうちの一説です。

前の記事でも触れましたが、当時の隋は日本とは比べ物にならないほどの大国でしたしその自尊心もありました。そのようなところに、「小さな蛮族国」である日本から「日が昇る国の天皇から、日が沈む国の皇帝に手紙を送る」ときたわけですから、皇帝の怒り具合は想像がつくというものです。

しかしこの頃の隋は、高句麗との戦いで疲弊していました。そのようなときに日本と関係がこじれた場合、隋にとっては非常に面白くない事態になりかねません。そのため隋の皇帝は怒りをコントロールして、日本と友好な関係を築こうと努めます。そのときに大きな手助けとなったのが、その前に聖徳太子が布いていた「冠位十二階」「憲法十七条」でした。これによって日本は隋と対等のパートナーと認められ、日本は隋からさまざまな技術や学問を学ぶ体制をつくりあげることができたのです。

この遣隋使を介したやり取りは、日本で初めてとなる外交政策だったとされています。

その後、聖徳太子は後進の指導に努めたとされています。また仏教の普及にも努めました。

聖徳太子に関するエピソードのひとつとして、「黒駒伝説」と呼ばれるものがあります。「黒駒」とは駿馬のことを指します。

聖徳太子はこの黒駒に乗って雲の中を駆け巡り、日本各地を見て回り、それぞれの訴えを聞いたとされています。話は前後しますが、27歳のときにこのようにして回っていたところ、富士の山頂に達し、そこから見た光景を元に「数福寺」を作ったとされています。

さすがにこれは「伝承」の域を出ない話ではありますが、言い換えるならば、聖徳太子という人間に対して多くの人が期待を寄せ、その実績を評価していたことをうかがわせるエピソードではあります。

また、聖徳太子が40歳のときに、彼が遊行に出かけた際に道端で飢えた人を見つけたことから始まるエピソードもあります。聖徳太子はこの人に対して食べ物を恵んだばかりか、自分がそのときに着ていた服すらも与えたとされています。ただその人はその後亡くなり、墓に弔われることになります。

しかし数日後に同じ場所に行くと、その人の遺体はなくなっていたのに衣だけが取り残されていました。これは聖徳太子が、飢えたる人に見せた無私の優しさが仏にも通じたエピソードとして語り継がれています。

<聖徳太子が広めた仏教、その考え方と実際の功績>

国土の平定と、諸外国との対等な外交のために仏教を広めた聖徳太子でしたが、やがて彼は仏教の研究に打ち込むようになります。前の記事でも触れましたが、聖徳太子は上記のような実利的な目的だけではなく、自分自身でも仏教を頼みにする心があったのだと思われます。

そのため、仏教の教えを元として、四天王寺に

・施薬院

・療病院

・悲田院

などを設けます。

施薬院とはその名前の通り薬を施すための建物であり、現在の薬局です。療病院もイメージしやすいかと思われますが、こちらは病を癒すための病院のことです。そして最後の悲田院は飢えた貧しい人を救うためのものであり、面倒をみる人のいない老人などを主な対象としていました。

このように聖徳太子は、病や傷、飢えの苦しみから人々を救うべく尽力をしていたのです。

また、聖徳太子は当時国交のあった高句麗の僧侶に師事し、その教えを請います。仏教の考え方を広めるために教科書「三経義疏」を作ります。三経義疏は「さんぎょうぎしょ」と読み、文字通り3つの書から成り立っています。

三経義疏のすばらしいところは、難解であり読み解くための知識が求められる仏教の経典のなかでも親しみやすいものばかりを選んで作ってあるということです。

「信じればだれでも仏になることができる」とする法華経と、当時ないがしろにされがちだった女性を主人公に据えた勝鬘経、そしてQ&A方式をとる維摩経の3つで成り立っている三経義疏は、多くの人に親しまれることになりました。

聖徳太子の、このような「万人に対してわかりやすく」「万人に対してひらかれた救いの道」という考え方は、生涯変わることはありませんでした。

<母の逝去と聖徳太子の死、そして聖徳太子が残したもの>

しかし聖徳太子の人生は、それほど長くは続きませんでした。

聖徳太子が47歳のとき(48歳とする説もある)、聖徳太子の母親が亡くなります。その後、間を置かずして、聖徳太子も倒れます。

彼の回復を祈って妃なども祈りを捧げましたが、622年の2月22日に聖徳太子は息を引き取ることになりました。亡くなったときの年齢は49歳だったとされています。また、聖徳太子の妃であった膳大郎女は聖徳太子に先立つこと1日前に亡くなっていて、夫婦はほぼ同日にこの世を後にしたと考えられています。

ちなみに聖徳太子の死因に関しては、現在でいう天然痘だとされていますが、暗殺だったのではないかと考える向きもあります。

母―妻―本人の3人が相次いで亡くなってしまったこの年は、多くの人にとって衝撃的な1年となりました。

常に貧しき人を見てさまざまな施策を講じていた聖徳太子の死のもたらした悲しみは一通りではなく、王族や臣下、万民にいたるまで「お日様が亡くなってしまって、天地が割れてしまったようだ」と評されるほどの嘆きをもたらしました。

ある者にとっては子どもを失ったかのような、ある者にとっては父母を失ったかのような悲しみであったとされ、だれもが仕事をする気力すら失くしてしまったと日本書紀には記されています。

その後聖徳太子は、母親と妃とともにお墓に葬られることになります。大阪府の南河内郡にある叡福寺に設けられたこのお墓は現存しており、今でもお参りすることができます。なおこのお墓は、3人が一緒に葬られていることから、「三骨一廟」と呼ばれています。ちなみに最寄りのバス停は「聖徳太子御廟前」です。令和の現在においてなお、聖徳太子がいかに偉大であるかをうかがい知ることのできるバス停の名前だといえるでしょう。

その後このお墓には、親鸞や日蓮などの名だたる僧侶が巡礼に訪れたとされています。

聖徳太子の残した功績は、その後も多くの人に影響を与えたと考えることができます。

聖徳太子は、仏教によって国の平定に尽力し、諸外国との対等な外交関係を築くことに成功した人物だといえます。これはその後の日本の発展の礎となったといえるでしょう。

またその視線は、決して宮廷文化にだけに向けられていたのではなく、あまねくすべての庶民に対しても広く注がれていたとされています。その表れが、施薬院であり、療病院であり、悲田院であったといえるでしょう。

聖徳太子の死から1400年近くが経とうとする現在においても、聖徳太子のための法要が営まれています。2021年の4月には聖徳太子の1400回忌法要が法隆寺で営まれていました。このように、聖徳太子は今なお多くの人に慕われています。