〔あおき葬祭コラム〕第41回:仏教の広がりと疫病の関係

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ

新型コロナウイルス(COVID-19)の流行は、私たちの生活や価値観を大きく変えました。しかしたしかに新型コロナウイルス(COVID-19)は未知の病気ではあるものの、昔から人間は幾度も疫病に悩まされてきました。

また今よりも医療技術が未熟で、また今よりもずっと「信心」と「現実」が切り分けられていなかった時代においては、この疫病への対策として人々は宗教にすがりました。現在の日本では当たり前となりつつあるメジャーな宗教である「仏教」が、日本人に広く浸透するようになったきっかけのひとつとして、この「疫病」があるとされています。

<日本書紀の性質と特徴、そして日本書紀における仏教伝来>

「日本書紀(にほんしょき。やまとぶみ、やまとふみとも呼ばれる)」は、日本に伝わっている古い歴史書のうちのひとつであり、六国史のうちのひとつです(残る5つは、「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三大実録」)。

日本最古の歴史書である「古事記」とほぼ同時期に誕生した歴史書であるとされていて、奈良時代から著されたとされています。なお日本書紀は、古事記に比べて客観性が高く、正確性も高く、より「歴史書らしい歴史書」だと評されています。それぞれの時代についてある程度詳しい記載が見受けられ、それは日本の歴史をたどる手助けともなっています。ただし日本書紀には、今では伝承の一部となった神々の記載もよくみられます。

全30巻にも及ぶこの日本書紀においては、その時代その時代に起きた出来事が比較的詳しく記されています。「仏教伝来」「疫病」もそのうちのひとつです。

日本書紀においては、「552年に仏教が伝来した」とする記述があります(※ただしこれは絶対的な「正解」ではなく、ほかの書物や研究では538年とする説もあります)。

現在の中国、当時の百済から訪れた使いが、当時の天皇であった欽明天皇に貢物のひとつとして経典や仏具を収めたのがその初めであったとされています。これは特に「仏教公伝」といわれています。

当時の百済の技術はすばらしく、その美しい仏像は欽明天皇の心を喜ばせたとされています。これによって欽明天皇は仏教の受け入れを検討しますが、今でこそ日本に根付いた仏教も、この時代は「外から入ってきた宗教」「伝来宗教」「(日本からみれば)新しい宗教」でした。そのため欽明天皇はこれをそのまま受け入れることはせずに、臣下に仏教の扱いについて尋ねることになります。

<仏教を取り入れたことによって疫病が広まったのか、それとも疫病が広まったから仏教が取り入れられたのか?>

宗教に関する問題や意見の対立は、古今東西、どこにでもあるものです。仏教においても例外ではありませんでした。当時の朝廷は、仏教を受け入れる派閥(導入派・崇仏派とも)と、仏教に反対する派閥(排仏派)に分かれていました。ちなみにこの2つの勢力の争いは、のちに「崇仏論」と呼ばれるようになります。

前者の「仏教を受け入れる」とした派閥の代表格は蘇我稲目(そがのいなめ)、そして後者の「仏教を廃するべき」とした派閥の代表格は物部尾輿(もののべのおこし)でした。蘇我稲目が仏教を受け入れるとした背景には、彼自身が、渡来人との交流が深かったからなのではないかという推測もされています。

欽明天皇は、受け取った仏像をまず蘇我稲目に託します。蘇我稲目はそれを自分の邸宅に祀ることになりますが、やがてこの邸宅はお寺となり、仏像はそこに安置されることになりました。蘇我稲目はその後、この仏像を礼拝していくことになります。

そのようなときに起こったのが、「疫病」です。

このときに流行った疫病は、現在でいう天然痘だったと考えられています。急激に高い熱を出させ、頭痛や手足の痛みなどをもたらすもので、時に人に死をもたらします。その死亡率は約30パーセントといわれており、ウイルスによって引き起こされます。またこの病は感染症であること、たとえ治ったとしても色素沈着に代表されるような跡を残すことから非常に恐れられていました。

現在でこそ予防接種によって絶滅した病とされており、世界的にみても、1977年から後は天然痘による感染事例は報告されていません。

しかし、ウイルスという概念もなければ予防接種という概念もなかった時代において、身分を問わずに流行する天然痘は、恐怖の対象でした。

人々のうちの一部は、天然痘が流行した理由を仏教に求めました。

「蘇我稲目が、外から伝わってきた宗教を重んじ仏像を礼拝するようになったから、日本の古来の神々が怒り疫病が引き起こされたのだ」と考えたわけです。特にもとから排仏派だった物部尾輿らはこの説を欽明天皇に強硬に説き、天明天皇もまたこの意見を受け入れます。

そして仏像を打ち捨て、お寺を焼き払うことになりました。

ただその後、不思議なことが起こります。天皇の住まいすらもお寺と同じように焼けてしまったのです。

このような流れをとったことから、「疫病は仏教を重んじたことによって流行ったのだ」とする説と、「仏教を軽んじたからこそ天皇の住まいが焼け、疫病も広まったのだ」とする説が対立することになったのです。

この論争は、まさに「卵が先か、それとも鶏が先か」でもあり、当時の人々は明確な答えを持ち得ませんでした。

しかし一度は廃された仏教は、やがて蘇我氏らが物部氏らを討ち果たすことによって再び日本に取り入れられるようになります。こうしてすさまじい争いの結果、日本に仏教が根付くことになったのです。

なお、明確な根拠までを辿ることは難しいのですが、現在では「大陸(百済)から仏像が持ち込まれた際に、天然痘もまた日本に持ち込まれたのではないか」とする解釈もあります。

<その後も天然痘がはやり、さらに150年後には仏教が大きく取り上げられることに>

その後も、日本はたびたび疫病に見舞われます。

上記で述べた天然痘の流行と崇仏派・排仏派の争いから150年後のこと、また天然痘が大流行します。

すでに日本では仏教が「古くからある宗教」と認知されていたこと、また時の天皇である聖武天皇が仏教を深く信仰していたことから、この疫病とそれによってもたらされる人々の混乱を収めるべく大きな仏像が建てられました。今も「奈良の大仏」として親しまれている東大寺の大仏がこれにあたります(※実際には、それ以外にも複数のお寺がこの時期に建てられています)。

今のような有効な対策もなかった時代、人々は仏に救いを求めました。人智を超えた疫病から逃れ、疫病が収まることを願い、人々は仏教に頼るようになります。社会の不安によって仏教は日本に広く受け入れられていきました。

このように「疫病」は、仏教が日本で信仰される理由のひとつとなったといえます。かつては「外からきた宗教」として打ち捨てられてすらいた仏教は、やがて安寧を求める人々の拠り所となっていったわけです。このことは、厚生労働省の展開するコラムなどにも取り上げられています。

新型コロナウイルス(COVID-19)が流行っている令和の時代は、宗教に頼ることしかできなかった奈良時代とは異なります。現在の疫病対策は、もっと現実的で、医学的で、理論立っています。しかし何か大きな被害が生じたときに、宗教に頼ろうとする人々の心の動きは、決して否定されるべきものではありません。また新型コロナウイルス(COVID-19)の収束を願い、特別に仏像や仏画を公開するお寺も出てきています。このようなことから考えれば、人が疫病終息のために神仏にすがるという精神性は、1000年以上前とそれほど変わりがないと言えるのかもしれません。