仏教の歴史は、紀元前6世紀(紀元前5世紀前後とする説もあります)から始まったものであり、現在も引き継がれている宗教のなかでは最古の部類に分類されます。
ゴーダマ・シッダールタの考えや教えを基本としていますが、時が経つに従い、また各地に伝えられるに従い、さまざまな解釈が生まれるようになりました。時にはどのような解釈をするかで論争が起こったこともあります。
たとえば、現在も「在来仏教」として多くの人に支持を集めている在来仏教(法曹宗・華厳宗・律宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗・天台宗・禅宗・日蓮宗・時宗・融通念仏宗の13の宗派。また、このなかで禅宗はさらに細分化されることで知られている)であっても、死生観や教えの解釈、ご本尊様に違いがみられます。
ただそんななかであっても、この世の真理を表す4つのキーワードは非常に重要なものとして見られています。
この4つのキーワードとは、
1.一切皆苦(いっさいかいく)
2.諸行無常(しょぎょうむじょう)
3.諸法無我(しょほうむが)
4.涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
です。(※ここでは便宜上数字を振っていますが、このなかのどれかが優先されるべきものであり、どれかが下位にくるものである、というわけではありません)。
今回はこのなかから、「諸法無我」について取り上げ、この考え方について解説していきます。
<諸法無我とは、「すべては繋がり、また変化していること」を示す言葉である>
「諸法無我」という言葉は、「諸行無常」などに比べるとやや聞きなじみのない言葉かもしれません。
しかしこれも解説をしていけば、奥深い言葉であることがわかるはずです。
私たちは普段生きているとき、「自分は自分1人で自立しているのだ」「周りのものからの助けは受けていないし、私は1人できちんと生きているのだ」と考えてしまいがちです。特に経済的に独立している人ならばそう思うことが多いといえるでしょう。
日本は資本主義ですから自分の財産は自分の物ですし、また経済的・精神的・物理的な意味で独立することは決して悪いものではありません。
しかしこのような、ある意味では「現実的な」話から少し目を動かすと、私たちの生活は決して「1人だけ」で成り立っているのではないとわかります。
私たちの命はほかからの影響を受けて成り立っていますし、財産を築くこともまた周りとの関係や関わりによって可能となることです。
自然環境の食物連鎖などが有名ですが、私たちの生活は周りと関係しあい、周りからの影響を受け、周りによって成り立っているのです。このように、「すべての物事や人、動物などは、周りからの干渉を受けたり影響を与え合ったりすることで成り立っている」と考えるのが仏教です。
このような考え方に行きつくと、私たちは決して1人だけで存在しているわけではなく、また1人だけで存在できるものでもないということに気づかされます。「私が」「俺が」「僕が」「自分が」という考えではなく、自分自身が周りから生かされていることに気づかされるわけです。
これはしばしば、「自然の存在する仕組みと同じだ」と言われます。
すべての物事(人や動物などの、命あるものを含む)は、周りと繋がっています。そして周りと繋がっているからこそ、周りの変化によって自分自身も揺れ動き、変化し、考え方や在り方が変わっていきます。
このような考え方を、仏教では「諸法無我」ととらえます。
自分を主体に置くのではなく、「主体だ」と考えている自分自身すら周りによって成り立っている……と気づかされるこの諸法無我の考え方は、仏教の基本ともなるものです。
<「諸行無常」っていったい何? 諸法無我を考えるうえでも重要になってくる語彙を解説>
さて、今まで解説してきた「諸法無我」は、しばしば「諸行無常」と対にして語られます。
諸行無常についてはこちらで詳しく解説しましたが、ここでも軽く触れていきましょう。
諸行無常は、比較的聞きなじみのある言葉かと思われます。平家物語の冒頭でも、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色~……」とありますし、学校の授業で習ったこともあるのではないでしょうか。
諸行無常とは、「すべての事柄は一定ではなく、何もかも必ず絶えず移ろい、変化し続けていく」ということを真理をついた言葉です。
どれほど永遠に思えるものであっても、それは毎日毎時毎分毎秒ごとに少しずつ変化していっています。たとえば、非常に強固なものに思える鉄製のビルであっても必ず劣化し遠い未来まで目を向ければいつか必ず崩れる日が来るでしょう。
また、永遠を誓い合った恋人同士の感情も、(良い方向にであれ悪い方向にであれ)必ず変わっていきます。より深い愛情へとかたちを変えることもありますし、お互いがギクシャクしてしまいうまくいかなくなってしまうこともあるでしょう。
私たちはいつまでも若いままではいられず、いつか必ず年老います。「アンチエイジング」の考え方もありますが、これも老化の速度を遅らせようとする試みにすぎず、老化そのものを完全に止めることはできません。
これを平家物語では「驕れるもの(は)久しからず」とし、栄光を極め隆盛を極め栄華を極めた平家の終わりを描いたわけです。
この「諸行無常」の考え方は、諸法無我と同じく仏教の基本となるものです。すべては移ろいゆき、永遠ではなく、終わっていくものだと考えるこの姿勢は、仏教において非常に重要な意味を持つものです。
<諸法無我と諸行無常の違いと関わり方について考える>
さて、「諸行無常」の考え方を復習したところで、ここからはこの「諸行無常」と「諸法無我」の考え方の違いと関わりについてみていきましょう。
「諸行無常」では、教えや真理を「縦のかたち」で表します。時間の経過やそれによって移り変わっていくもので、決してとどまることはなく、常に変化していくこととします。
対して「諸法無我」の場合は、教えや真理を「横のかたち」で表します。すべての物事はお互いの干渉によって成り立っており、横の関わりによって常に移り変わっていくもので、決してとどまることはなく、常に変化していくこととしているのです。
このように、「諸行無常」と「諸法無我」は、似ているようで違うものです。また違うものではあるのですが、相互に深い関わりを持つ言葉でもあります。この世の中は常に一定ではなく、「自分自身」という確固たる存在に思えるものさえ時間の変化や周りとの関わりによって変わっていくと考えているわけです。
そのため、「諸行無常」と「諸法無我」は対立する考え方ではなく、「この世の中の真理を、違う角度から解説した言葉だ」ととらえるのが正解です。
仏教のこの考え方は、「自分」というもののあいまいさや、「変化していくこと」を教えてくれるものです。この「変化していくこと」は時に私たちを悩ませるものではありますが、それに向き合うための方法として仏教の考え方があるのかもしれません。
※ここでは仏教のキーワードを取り上げそれについて解説していっていますが、人それぞれで信じる宗教は異なります。日本では信教の自由が認められていますし、宗教の考え方のどれが間違っている・どれが正しいといえるものではありません。ここで紹介しているのは、あくまで「仏教から見た世界の解釈である」とお考えください。