〔あおき葬祭コラム〕第15回:意外?! 実はこんな言葉も仏教からきている~愛嬌・阿吽・挨拶

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム

日本の文化に深く根付いた仏教は、「言語面」でも大きな影響を与えてきました。

現在では当たり前のように使われる言葉のなかにも、実は仏教の考え方を由来とするものもあります。

その多くは、われわれが「仏教用語である」と意識することなく使っているものです。あまりにも当たり前に使っているため、それが宗教から端を発していることに気づいている人はほとんどいないことでしょう。

今回はそんな言葉のなかから、

・愛嬌

・阿吽

・挨拶

の3つを取り上げます。

<「愛嬌」という言葉は、もともとは読み方も違っていた! 本来の意味とは?>

「愛嬌(あいきょう)」は、現在の国語辞典をひくとこのような意味の言葉として書かれています。

“①好ましいかわいらしさ。にこやかでかわいらしいこと「―のある少女」②人うけのよいような振る舞いや表情。愛想あいそう。「―をふりまく」③興きょうをそえるものごと。「とんだお―だ」④客を喜ばせるためのおまけ「―に出すてぬぐい

―引用:角川最新国語辞典P2:山田俊雄 石綿敏雄“

これは、現在広く使われている「愛嬌」の意味です。

しかし愛嬌という言葉は、昔は「愛敬」と書かれていました。この「愛敬」の表記自体は今の国語辞典でも使われていますが、一般的に「愛嬌」とされることの方が多いといえるでしょう。また今では「あいきょう」と読んでいますが、かつては「あいぎょう・あいぎゃう」と濁った読み方をしていました。現在のように「あいきょう」と呼ばれるようになったのは、室町時代以降のことだとされています。

「愛敬」という表現からもわかるように、かつては「敬うこと」にも主題が置かれた言葉でした。仏教の菩薩様の温和なお顔立ちや振る舞いをもって「愛敬相」としてきており、そこには「慈しむこと、会いすること、敬うこと」の意味がありました。また人間同士の間でも親睦を深め、お互いを尊重し合い、愛し合うことを指していました。

ただ時代が移り変わるに従い、この「愛敬」の「敬う」の部分が少しずつ薄れていきました。現在では「かわいらしさ」「愛らしさ」がメインに来るようになったのです。またそのなかに「艶やかさ」などのように、一種の媚を含んだような振る舞いをも含有する言葉となっていきました。さらにこの言葉は多くの意味を産み、「ちょっとしたサービス」などのように使われることも出てきました。

本来の意味が移り変わり、その時代に即した言葉になっていくことの面白さが、この「愛嬌」「愛敬」という言葉から伝わってきます。

<お寺などでもこの姿を見ることができる~「阿吽」について>

仏教用語から生まれた言葉のなかには、「すでに仏教用語としての意味が極めて薄くなっているもの」もあれば、「広く使われるようになったものの、比較的仏教用語としての性質も残っているもの」もあります。どの単語に対してどのように解釈するかは人それぞれですが、「阿吽(あうん)」の場合は後者に分類される……と感じる人が多いのではないでしょうか。

阿吽は、現在の国語辞書にはこう書かれています。

“①あらゆる現象の始めと終わり。②≪梵語の「ア」は口を開く音、「ウン」は口を閉じる音であることから≫はく息と吸う息。③左右二体の仁王におうや狛犬こまいぬの、一方は開き、他方は閉じた口の形。

阿吽の呼吸≪「阿吽」と「呼吸」は同意≫両者の呼吸。「―が合う」

―引用:角川最新国語辞典P4山田俊雄 石綿敏雄“

これは、梵語(サンスクリット語)からきているものです。特に「阿」は最初の文字であり、「吽」は最後の文字であることから、「最初から最後まで」の意味が持たされるようになりました。この言葉は宇宙の始めと終わりをも表しているとされており、非常に大きな意味・深い意味を持つ言葉なのです。

お寺などにある狛犬は、2対になっていることが基本です。よく見ると片方は口を閉じており、片方は口を開けています。これは「阿」と「吽」の口の形だとされています。このように、「阿吽」については比較的「仏教用語」としての意味を持っているものだといえます。

現在では、「阿吽の呼吸」というと「ぴったりと息が合っていること」を示す言葉として使われてもいます。本来は「阿吽の呼吸」の「阿吽」と「呼吸」は意味が重なっているものであるため、「阿吽の呼吸が合う」となるように思われますが、現在は「阿吽の呼吸」とするだけで「息が合っていること」を指すことも多いようです。また、特に親しく息の合う仲をもって、「阿吽の仲」などとすることもあります。「以心伝心」と似ていると指摘する声もありますが、これもまた仏教用語の1つです。在来仏教のひとつである禅宗からこの言葉が生まれました。

なおここでは、「狛犬」「仁王像」を取りあげましたが、沖縄にいるシーサーなどにもこの「阿吽」の口をしたものがいます。普段はあまり意識をしないところですが、今度足を運んだときは注目してみてください。

<今では当たり前の言葉になった「挨拶」も実は仏教用語なのです>

「仏教用語であること」を一番意識せずに使っている言葉といえば、「挨拶(あいさつ)」なのではないでしょうか。

挨拶は、現在の国語辞典では、

“①会ったとき、別れるときにおじぎすること。また、そのときのことば。「-・してからすわる」②通知・報告や感謝の儀礼ぎれい的なことば(を述べること)。「会長の就任―」「―状」③受け答え。応答。「なんともーのしようがない」

―引用:角川最新国語辞典P2山田俊雄 石綿敏雄“

「挨拶」はあまりにも私たちの生活に根付きすぎているものですし、そこにも、また辞書のなかにも、仏教用語であることがわかる記述はひとつもありません。しかしこれは、元々は禅宗のやり取りから出ている言葉だと考えられます。「一挨一拶(いちあいいつさつ)」という言葉がその元です。これは、相手の悟りの深さをはかるための問答のことだといわれています。

ここから端を発した「挨拶」は、禅宗だけでなく、ほかの一般的な問答などにも使われるようになりました。そこからさらにこの言葉の意味が拡大化されて、手紙でのやりとりも「挨拶」に含むようになったと考えられています。

なお、「挨拶」の「挨」は「お互いの距離を縮めること」「拶」には「相手に迫る」という意味があるとされています。このため、昔は「大勢の人がほかの人を押しのけ、前に進むこと」の意味にも使われていました。

現在では「挨拶」という言葉が、仏教的な意味をまとうことはほとんどありません。「人と人とが交わす言葉」「日常会話」のようにして使われることが一般化しており、こちらの意味で使う方がはるかに多いといえます。ただこれは、「仏教の考えが廃れたこと」とはイコールではないと考えられます。むしろ、仏教用語であった「挨拶」が広く世間に浸透し、受け入れられていったとみるのが自然です。

仏教用語として誕生した言葉は、仏教文化が一般庶民にも広がるに従い、また時代が経つに従い、かつての言葉とは違う意味を持つようにもなりました。

ただ根付いた言葉は失われることなく、今も私たちの世界を支えています。

このような観点から、「仏教用語」「仏教の考え方」に触れていくのも楽しいかもしれません。ここではほんの一例を取りあげましたが、実際にはほかにもたくさんの「仏教由来の言葉」があるからです。