〔あおき葬祭コラム〕第60回:聖徳太子と仏教2~聖徳太子の生涯と仏教の伝播をたどる

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聖徳太子はわずか20歳(19歳とする説もあります)で、歴史上初めての女性天皇となった推古天皇の補佐役(摂政)を務めることになりました。

ここからは、摂政になった後の聖徳太子の人生を追うこととします。

<四天王寺の建立と、法律の整備>

摂政となった聖徳太子は、自分をサポートして宿敵に打ち勝たせてくれた四天王に大変感謝しており、その感謝のために「四天王寺」を建立しました。現在でも大阪府にあるこの「四天王寺」は、日本最古の国のお寺(官寺)として知られています。

そして22歳のときに、法興寺を建立します。

五重塔が非常に有名ですが、伽藍(がらん)などを取り入れた非常に美しく荘厳な雰囲気を持つお寺であり、当時の最先端の技術がふんだんに詰め込まれていました。このような建築を可能にしたのは、聖徳太子が積極的に宮廷に招き入れた外国人の力だったといわれています。一説によれば、このころは宮廷人のうちの実に30パーセント以上が外国人だったとされています。

聖徳太子が26歳になったとき、彼は中国大陸に使者を派遣します。

意外に思われるかもしれませんが、このような「使者の派遣」は実に120年ぶりのことでした。

「百聞は一見にしかず」といいますが、この詩遮断は数多くの最先端の情報を得ることになります。しかしこのときには、まだ日本は「未開の土地」「未成熟な国」という扱いでした。そのため、外交を結ぶことは断られてしまいます。

しかしこのような屈辱的な経験が、当時若かった聖徳太子の考え方をより進歩させ、「憲法十七条」「冠位十二階」の制定へとつながっていくわけです。

聖徳太子がなしえた功績のなかでも非常に有名であり、歴史の教科書で必ず目にすることになるのが「憲法十七条」でしょう。飛鳥時代の604年に聖徳太子が立法した法令であり、「和を以て貴しとなす」から始まるものです。この法律では、官吏の行う仕事などを示したもので、儒教の精神をふんだんに取り組んだものでした。当時文化の中心であり日本のお手本であったの現在の中国である「隋」でしたが、この憲法十七条はその髄の法律を見習って作られたものだとされています。

法律がなかった時代の日本は、大豪族が中心となる文化でした。きちんとした理論だった法律もなく、一般庶民の生活は常に苦しく、不公平なものでした。それを打破するべく聖徳太子は隋との交流を行い、この法律を完成させたわけです。またこの法律のなかには、「仏と法と僧侶を敬うように」という記述も見られます。仏教への帰依と、尊敬の念を抱くことを法律のなかに取り込んでいたわけです。

なおこれには、当時の大臣である「蘇我馬子」も深く関わっていました。

前の記事で触れたように、蘇我氏は崇仏派として知られており、非常に篤く仏教を信仰していました。そのためこのような法律が作られたのだと考えられています。

また、聖徳太子を語るうえで欠かすことのできないキーワードとして、「冠位十二階」も非常に有名です。

これは高句麗や百済といった外国の文化の影響を強く受けて作られた、官位制度だといえます。

上記でも述べたように、かつての日本は大豪族による局地的な支配によって成り立っていました。しかし聖徳太子はこれを、中央集権国家にしたいと考えました。そのため共通した官位制度が必要となったのです。またこれによって、「身分は低くても能力のある人間を取り上げること」ができるようになると考えました。

この監視制度では、「大徳・小徳・大仁……」などのように12個の階級をつけて、それぞれに青・赤・黄色・白・黒・紫(+濃淡)の色の冠を与えて、それぞれの階級が分かるようにしていました。

<聖徳太子はなぜ仏教を広めようとしたのか? そこにある聖徳太子の思惑とは>

このようにして、日本史上に残るさまざまな功績を残してきた聖徳太子ですが、そもそもなぜ聖徳太子は仏教を取り入れようとしたのでしょうか。

これには諸説あります。

・聖徳太子自身が仏教を信じ、帰依していたから

まず、彼自身が崇仏派である蘇我氏との関わりが深かったことが挙げられます。聖徳太子自身もまた仏教となじみが深く、彼自身もまた仏教に救いを求めたり、仏教を心のよりどころとしたりしていたと解釈されています。令和に生きる私たちが宗教に対して救いを求めたり、心の頼みにしたりするように、聖徳太子も一個人として仏教を信仰していたと考えられているのです。

現在では「宗教分離」という考え方が広く知れているため、このような価値観はなかなかなじみがないものかもしれません。しかし世界各国を見渡すと、宗教と政治が深く結びついているところは決して少なくありません。これは古今東西に共通してみられる現象であり、聖徳太子もまた、自分自身の心のよりどころであった仏教を国の政策に取り入れたのだ……と考える向きもあります。

・国を律し、まとめるための基準となるのが仏教であった

ただし聖徳太子が、「自分が信じているものだから」という理由だけで、仏教を国の法律に組み込んだとは考えにくいともいえます。聖徳太子は非常に優秀な政治家でありました。その聖徳太子がわざわざ仏教を法律に組み込んだことには、政治的な意図があったとみるのが自然です。

その政治的な意図として、もっともわかりやすいのが「国の礎となる規範を定めるのが目的であった」とするものでしょう。

国をまとめ、国の乱れを抑えるためには、国民が共通するモラル・規範を持つことが必要です。「これは良いこと、これは悪いこと」という共通の理念を持つことが非常に重要ですし、そのためには取り締まるための組織も整備しなければなりません。

ただ、「取り締まるための組織」の権力をいたずらに強くしたり、罰則を厳しくしたりするだけでは、人の心や行いは縛れません。

もっとも有意義なのは、人の行いを縛ることではなく、人が自らの心から「善行をしたい」と考えることです。仏教の「善行を積めば極楽浄土に行ける。悪行を積めば地獄に落ちる」という価値観は、このような考えと非常によくマッチするものでした。

自らの行いを律し正す基準となる「仏教」を広めたことには、このような理由があったとされています。

・諸外国と対等に渡り合うための手段としての仏教

上記では「内政と仏教」について取り上げましたが、もうひとつ忘れてはならない視点があります。

それが、「外政と仏教」です。

上でも述べましたが、聖徳太子が初めに派遣した遣隋使は、けんもほろろに外交を断られてしまいます。法制度などもしっかりしていなかった当時の日本は、隋からすれば「野蛮人の国」にほかなりませんでした。これでは隋と対等な関係を結ぶことはできません。

しかし当時の最先端であった「仏教」を取り入れそれを制度に落とし込むことで、「私たちは仏教を理解することができる人間である」ということを諸外国にアピールすることができる……と考えたのが、聖徳太子の読みの深いところでした。

当時の日本に根付いていた素朴な神道から、より体系化されているとされていた仏教への変革は、このような理由があったと考えられています。

聖徳太子が仏教を広めていった理由は、彼自身の信心によるところもありますが、合理的で実利的な面も非常に大きかったといえるでしょう。実際このような彼の取り組みは、日本を大きく進展させることとなります。