〔あおき葬祭コラム〕第57回:聖徳太子と仏教(1)~聖徳太子の生涯と仏教の伝播をたどる

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ

これまでいくつかの記事で「ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/お釈迦さま)の歩みと仏教の広がりについて解説していきましたが、ここからは聖徳太子と仏教の伝播について解説していきます(全3回の予定です)。

聖徳太子は、日本に仏教を広めた人物として知られています。

歴史の教科書で必ず目にするこの「聖徳太子」の人生とはどのようなものだったのでしょうか。

そしてなぜ聖徳太子は仏教を広めようとしたのでしょうか。

<本名は「厩戸皇子」、「聖徳太子」はのちの尊称とみられる>

私たちが非常によく目にする「聖徳太子」という名前ですが、これは聖徳太子の本名ではありません。本名は「厩戸皇子」とされています。なお、身分が高いにも関わらずなぜ「厩(馬小屋)」を意味する「厩戸皇子」と名付けられたかについては諸説あります。

たとえば、「厩戸皇子は、馬小屋の扉の前で生まれたからだ」とする説もありますし、「そもそも当時馬は非常に高価なものであると同時に、馬を飼うのは知識人であることの象徴であり、馬小屋は教育を行うための場所であった。そのため、身分の高い厩戸皇子がここで生まれたのは自然なことである」とする説もありますし、「キリストが馬小屋で生まれたという説が日本に伝わってきたときに、そのエピソードに『仏教を広めた聖徳太子』を重ねた結果、『馬小屋(の扉の近く)で生まれた』という話が誕生した」という説もあります。また、「そもそも出生地が厩戸(地名)あるいは馬屋戸(同じく地名)で生まれたからだ」とする説もあります。さらには、「そもそも厩戸皇子が本名であったとする説には根拠がない」とする説すらも出されることもあります。

本名の由来(あるいは本当に厩戸皇子が本名であるかどうか)の説は数多くあれども、この厩戸皇子が長じて「聖徳太子」になったということは間違いありません。なお「聖徳太子」とは、のちにつけられた尊称あるいは諡(おくりな。人が亡くなった後に贈る称号のことを指す言葉で、故人の生前に成しえた善行や善き志に基づいて付けられる)であったとされています。

ここでは、子ども時代までの話は「厩戸皇子(聖徳太子)」として統一してお話ししていきます。

<子どものころから聡明であった厩戸皇子(聖徳太子)のエピソード>

厩戸皇子(聖徳太子)は身分の高い人だということもあり、父親と母親の記録もきちんと残されています(現在の日本は戸籍文化であるため先祖の歴史をたどることは難しくありませんが、当時は後世で名前を残すことになる人であってさえ誕生した年や父母の来歴をたどれないことがよくあります)。

厩戸皇子(聖徳太子)の父親は、のちに用命天皇となる橘豊日皇子であり、母は穴穂部間人皇女でした。ちなみにこの2人は異母兄妹の関係にあたります。ほかの国でもそうであったように、当時の身分の高い人同士の間では、しばしば近親婚が行われていました。

彼らは、その後何度も歴史に登場することになる蘇我氏と血縁が濃かったとされています。

このように高貴な血筋のもとで生まれた厩戸皇子(聖徳太子)は、子どものころから非常に聡明であったと伝えられています。

たとえば、子どものころのエピソードとして下記のようなものがあります。

厩戸皇子(聖徳太子)が2歳であった年の2月15日、厩戸皇子(聖徳太子)は夜明け前に目を覚まします。そのとき厩戸皇子(聖徳太子)は、東の方向に向かって手を合わせて、「南無仏」と複数回繰り返したとされています。2月15日はブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/お釈迦さま)が入滅された日でした。

10歳のときには、弥勒像を自宅に安置した人の家を厩戸皇子(聖徳太子)自らが訪れたとする逸話もあります。

またほかにも厩戸皇子(聖徳太子)のエピソードはいろいろあります。

特に有名なのは、「1度に10人が話しかけてもそれを聞き分け、的確に言葉を返すことができた」という話でしょう。これは特に「豊聡耳(とうとみみ)」と称されるエピソードです。

加えて日本書紀においては、「兼ねて未然を知ろしめす」と書かれています。これは言ってしまえば「予言ができたこと」を表すもので、未来を見通す瞳を持っていたとされています。なお厩戸皇子(聖徳太子)の具体的な予言については書かれていませんが、これも権力者に都合が悪いことを書いていたからだ……と解釈する説もあります。

さらに、「厩戸皇子(聖徳太子)は神馬に乗って空を駆けることができたであるとか、14歳のときに起こっていた物部氏と蘇我氏の争いで蘇我氏が劣勢になったときに厩戸皇子(聖徳太子)が彫った木彫りの四天王像が蘇我氏を助けて勝利に導いたであるとか、神話と現実が一体になったようなエピソードもみられます。

もちろんこれらのエピソードのすべてが、歴史上本当にあったものだと断言するのはあまりにも乱暴な話です。現在の価値観でみれば当然疑ってしかるべきエピソードもたくさんあります。ただそれでもこのようなエピソードができたということは、逆に考えれば、それだけ厩戸皇子(聖徳太子)が後世において特別な存在となったことを示しているといえるでしょう。

<成長していく厩戸皇子(聖徳太子)、物部氏との対立>

厩戸皇子(聖徳太子)はその後も皇子として成長していきます。

そして厩戸皇子(聖徳太子)が13歳(11歳とする説もあります)のころ、父親であった橘豊日皇子が天皇として即位し、用明天皇となります(以降は「用明天皇」表記とします)。

上記でも軽く述べましたが、当時の蘇我氏は物部氏と対立関係にありました。これにも「仏教」が関わっています。

当時の宮廷では、仏教を受け入れるか、それとも仏教を排するかがよく議題に挙がっていました。ちなみに前者の「仏教を受け入れる派」は「崇仏派」、後者の「仏教を排するべしと考える派は「廃仏派(排仏派)とも書く)」と呼ばれていました。

厩戸皇子(聖徳太子)にとって縁の近い蘇我氏は前者の崇仏派の立場をとり、蘇我氏と対立する物部氏は廃仏派(排仏派)の立場をとっていました。厩戸皇子(聖徳太子)の父親である用明天皇もまた崇仏派であり、仏教に帰依するとの意思を表明しました。これによってさらに蘇我氏と物部氏の対立は激化していきます。

そんな折、用明天皇はわずか即位2年で病に倒れて彼岸に旅立ちます。厩戸皇子(聖徳太子)がまだ15歳のとき(14歳とする説もあります)でした。このときには皇位争いも勃発し、そのなかでついに蘇我氏と物部氏の間で戦争が起こることになります。

初めは物部氏が優勢とみられていましたし、厩戸皇子(聖徳太子)は母方の叔父を3人も亡くすという悲劇に見舞われましたが、からくも勝利しました。このときのエピソードが、上記で述べた「四天王像が味方してくれた」というものです。

物部氏との壮絶な戦いに勝利した後、崇峻天皇(すしゅんてんのう)が即位します。しかし崇峻天皇もわずか5年後に暗殺され、その姉である額田王(ぬかたのおおきみ。額田部皇女とも)が天皇に即位し、推古天皇となります。そして厩戸皇子(聖徳太子)は19歳(20歳とする説もあります)で、そのサポートをする摂政となります。

摂政は「年若い子ども」「女性」が天皇になったときにそのサポートをする役目を担う役職ですが、厩戸皇子(聖徳太子)自身すらも現代の感覚では「子ども」と言われかねない20歳のときにこの役職に就いたのです。

ここから、彼のさまざまな政策が打ち出されるようになります。