ブッダ(お釈迦さま)の人生をたどるこのコラムも、今回で9回目となりました。
多くの人に教えを広め、そして多くの人を救ってきたブッダ(お釈迦さま)であっても、「寿命」には勝てません。ブッダ(お釈迦さま)にもやがて生き物としての「生命の終わり」が近づいてくることになります。
今回の記事では、ブッダ(お釈迦さま)が最後にたどり着いた場所や、死に至るときのエピソードなどを取り上げていきます。
<ブッダ(お釈迦さま)の「最後の1年」の足跡は明らかではないが……>
ブッダ(お釈迦さま)の人生については数多くの文献で触れられていますが、なにぶん昔のことですから、はっきりとは記されていないところもあります。かなり詳細に書かれていたとしても、「その足跡は十分に明らかにされてはいない」とされることも多いのですが、ここではそのなかでも比較的よくみられる記述について取り上げていきます。
ラージャグリハを伝道の中心地として定め、そこに長くとどまったブッダ(お釈迦さま)は、徐々に信徒を増やしていきます。増え続ける信徒のなかには不信心な者もいましたし、仏教に対する解釈も分かれていくこととなります。ブッダ(お釈迦さま)はそのなかで4つの戒律を作り、彼らを戒めました。
これによって集団は秩序を保つこととなります。
その後の1年間の間に、ブッダ(お釈迦さま)は己の死期を悟ったともいわれています。そして彼は、それまでの長い旅路の終わりとして、自らの故郷であるコーサラ国(カピラ城)を求めたとされています。今でも人は、年を取ると故郷を求めるといいますが、ブッダ(お釈迦さま)もまたそうであったのかもしれません。
ブッダ(お釈迦さま)の生まれた年は諸説ありますが、現在では「80歳で亡くなった」とする説が一般的です。この説にのっとるのであれば、この「最後の旅」は、ブッダ(お釈迦さま)にとっては現在からみても老境にあるなかでの旅だったといえるでしょう。
年老いた体で、彼は故郷への教化の旅を続けていくことになります。
ブッダ(お釈迦さま)の足はガンジス川をたどり、北上していきます。故郷へと向かうその旅路の最中に、「バイシャリー(ヴァイシャリーともいう。以下は『バイシャリー』で統一。パトナの北、80キロの地点にある。八代仏跡のうちのひとつであり、非常に有名。ブッダ(お釈迦さま)は渡し船を利用したともいわれているが、現在では橋などもできている)」という町にたどり着きます。
このバイシャリーで、ブッダ(お釈迦さま)は弟子であるアーナンダ(阿難・あなん。以下カタカナ表記)などの弟子に自分の教えを授けます。
しかしバイシャリーで過ごす時間は、ブッダ(お釈迦さま)に重い病をもたらしました。その病は強い痛みを伴うもので、ブッダ(お釈迦さま)の余命が残り少ないことは弟子たちの目にも明らかでした。
アーナンダは、頼みにしていた師が旅立つことを予感して、「ブッダ(お釈迦さま)が亡くなったのであれば、私は何を頼みに生きて行けばよいのか」と尋ねます。しかし痛みのなかにあっても、ブッダ(お釈迦さま)は常に冷静でした。
ブッダ(お釈迦さま)は言います。
「もしもこの教団が私を頼みにしており、そして私が教団を統べるものであるのだとしたら、『これから先何を頼みにしていけばよいか』を言い残さなければならないだろう。しかし私はもう年老いており、古くなった車を直しながら使っているようなものだ。だから、(そんな古い車のような)私を頼みにしてはいけない。アーナンダよ、私が亡くなっても、お前自身と真理を頼みとしなさい。(私を含めて)それ以外のものを頼みにしてはならない」と告げたのです。
なおこのアーナンダとの対話については、今回取り上げた「バイシャリーに着き、ひどい腹痛に見舞われた後に言い渡した」とする説と、この後に取り上げる「アーナンダと2人で過ごした雨季のときに言い残した」とする説の両方があります。ここでは前者の論に従って、ここで紹介しておきます。
<最後の旅へ~そして入滅に>
長いインドの雨季が終わったタイミングで、ブッダ(お釈迦さま)は旅を再開することとします。
バイシャリーの町での托鉢が終わり、食事をとった後に、ブッダ(お釈迦さま)はバイシャリーで過ごす修行僧すべてを呼び集めます。そしてそこで、自らの命が長くないこと、自分が死んだ後も変わらずに修行をすることを言い伝えます。
その後、ブッダ(お釈迦さま)はアーナンダを伴い、バーシャリーを後にします。そのときにブッダ(お釈迦さま)は、「この町を見るのも、これが最後となるだろう」と言ったとされます。
道中、ブッダ(お釈迦さま)は彼を慕っていた鍛冶屋チュンダからの心からの供物(※現在では「供物」「供養」は亡くなった方や信仰対象に対して使われる言葉という印象が強いが、「心からのもてなし」などの意味も持つ)を受けることになります。
しかしそのなかにあったキノコ料理が、当時のブッダ(お釈迦さま)には腹痛の原因となりました。かねてから強い腹痛を患っていたブッダ(お釈迦さま)は、ひどい腹痛と下痢によって摩耗していきます。
そのなかでも、ブッダ(お釈迦さま)はアーナンダとともにクシナガラ(クシーナラーともいう。以下は『クシナガラ』で統一。四代仏跡のうちのひとつであり、インド北部にある。ブッダ(お釈迦さま)が最後に沐浴したヒランヤパティー河を有する)に到着します。
そしてここで、ブッダ(お釈迦さま)は、弟子に対して、疲れたことと休みたいという願いを告げます。
ここからのエピソードは、だれもが知ることでしょう。ブッダ(お釈迦さま)は、クシナガラにあるサラソウジュ(『沙羅双樹』『沙羅』『シャラソウジュ』『シャーラ樹』などのように記されることもある。以下は『サラソウジュ』で統一)の下で横になることになります。そして頭を北側に、顔を西側に、右の腹を下にした姿勢をとります。現在でも広く知られている「北枕」の姿勢であり、葬儀の現場において「故人は北に頭を向けて寝させる」の由来となっているものです。
ブッダ(お釈迦さま)の臨終の時は近づいていました。弟子たちは深い悲しみに包まれていましたが、ブッダ(お釈迦さま)自身は非常に冷静で、「すべての物事は移ろいゆき、常なるものはひとつもない。道徳に外れたことを行うことなく、修行を行いなさい」と告げます。そしてアーナンダの献身と奉仕に感謝しながら、その生を静かに終えました。
亡くなったのは2月15日満月の夜、80歳のときだとされています。
ブッダ(お釈迦さま)のこのエピソードは非常に有名です。日本でも、西行法師が「願はくは 花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃」」と呼んでいます。これはブッダ(お釈迦さま)の入滅のエピソードをなぞらえたものです。なお現在の感覚で言うと「2月」は「冬」なので、「春」とされていることに違和感を覚える人もいるかもしれませんが、これは旧暦と新暦の違いによるものです。
ブッダ(お釈迦さま)が入滅したこの日は「涅槃会(ねはんえ)」と呼ばれています。そのため、現在でもお寺では2月15日に涅槃会を行うところと、3月15日に涅槃会を行うところに分かれています(なお、現在は3日程度の余裕をもって行われるケースも多いといえます)。
このようにして、ブッダ(お釈迦さま)の生涯は静かにその幕を下ろしたのです。