〔あおき葬祭コラム〕第38回:仏教の主な宗派~「禅問答」を行う臨済宗

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「臨済宗」は、在来仏教のひとつであり、また「禅宗」のうちのひとつです。禅を行うことを修行のひとつとしてとらえているものであり、広く知られています(※ただし、「禅宗」という言葉はよく使われていますが、「禅宗」と名乗る宗派そのものは存在しません)。

今回はこの「臨済宗」について取り上げていきます。

<臨済宗は中国禅宗五家のうちのひとつ>

臨済宗は、中国の「中国禅宗五家」のうちのひとつです。今回大きく取り上げる「臨済宗」、日本でもよく知られている「曹洞宗」、そして「法眼宗」「雲門宗」「イ仰宗」の5つにわけられています。

臨済宗はさらに、「楊岐派」「黄龍(竜とすることもある)派」に分けられます。このため、中国禅宗五家は「中国禅宗五家七派」と呼ばれることもあります。

これらの分類は、あくまでそれぞれの宗派の「禅の個性」による分類と宗派の違いです。そのため、「臨済宗がもっとも正当であり、雲門宗は臨済宗に劣る」「もっとも偉いのはイ仰宗であり、ほかの4つはその傘下にある」などのような「優劣」がつけられるものでありません。いずれの宗派も、仏教の祖であるお釈迦様の正法を現在に伝えているわけです。

中国で生まれた臨済宗が日本に伝わってきたのは、鎌倉時代のことだったといわれています。当時の中国は「宋」と呼ばれていましたが、この宋から伝わってきた臨済宗の考え方を元に、1195年に「聖福寺」が建てられました。これは日本となる膳宗のお寺です。現在の福岡県に建てられたこのお寺は、2021年3月の今も、「安国山聖福寺」として残り、またさまざまな催しも現役で行われています。

鎌倉時代に臨済宗は非常に愛され、時の権力者であった2代め将軍の源頼家などの支援を受けるかたちで広まっていきます。京都などにも臨済宗のお寺が建てられ、広く浸透していきます。

臨済宗の行う「禅の修行」は、武士社会であった鎌倉時代においては非常に相性の良いものでした。武士の修行のひとつとして坐禅が取り込まれました。また五山制度(寺格を表す制度をいう。五山・十刹・諸山・林下の5つに分けられ、五山がもっとも格が高い)のうち、五山に認定されたお寺はすべて臨済宗のお寺であるなど、まさに「武家社会に愛された」宗派だったといえるでしょう。

加えて臨済宗は、当時の文学ともなじみがよく、お茶や水墨画などにも大きな影響を与えました。

ただこのようにして発展した臨済宗でしたが、戦国時代に入ると少しずつ衰退していきます。もっともこの「衰退期間」はそれほど長くはなく、平和な時代だったと今でもよく取り上げられる江戸時代においては、また臨済宗が盛り返しました。この時代には、禅そのものが体系化され、またそのときに唱える書物も完成しました。

<臨済宗の開祖とその足跡>

このようにして進んでいった臨済宗ですが、ここからは、臨済宗の日本の開祖について触れていきます。

臨済宗の開祖は、「栄西」と呼ばれる人です。彼は現在の岡山県に生まれたのですが、彼の親は神官を務めていました。

昔は年若いときに宗教の道を歩み始める人も多く、栄西もその例に漏れません。彼は11歳のときに天台教を学び始め、14歳で比叡山に入山します。

その比叡山で修行を積んでいくわけですが、28歳のときに、中国(宋)にわたる機会を得ます。そこから天台宗の経典を持ち帰ったわけですが、彼の宋へのあこがれ、禅への追及伸は止むことはありませんでした。そのため、それから20年ほど経った時期、47歳で栄西は再び宋の地を踏むことになります。このときすでに中国では臨済宗が知られており、栄西もまた、臨済宗の黄龍派に属する僧侶のもとで修業を積みます。彼の修行が認められたのはそれから5年後のことで、栄西は師から印可(いんか。修行を積んだ弟子に対して、師がその力量を認め、証を与えること)を受けることになります。この印可を胸に、栄西は日本に戻りました。

日本に戻ってきた栄西が1195年に開いたのが、前述した「聖福寺」です。上記では順風満帆に進んでいったように思われますが、一時期は、朝廷から「禅を停止せよ」という命令も受けていました。ただ彼はそれで膝を屈することなく、「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」をしたため、教えを広めていきます。」

その後、京都などにも臨済宗のお寺が開かれることになります。臨済宗を広めることに尽力した栄西は、1215年の7月5日に、自らと関わりの深い「健仁寺」にて入滅します。現在も彼は護国院にて弔われています。

臨済宗を日本で広めその発展に尽力した栄西は、よく、「開山千光祖師明庵栄西」などのような呼び方が取られます。また彼は臨済宗を広めることだけに貢献したわけではなく、お茶の普及や効用、作法などを広めることにも寄与しました。そのため宗教家としてだけではなく、「日本におけるお茶の祖である」としてたたえられることもあります。

<臨済宗の考え方とその教義、修行について>

「在来仏教」と呼ばれる宗派はそれぞれ長い歴史を持ち、また多くの信者を抱えます。もともとはゴーダマ・シッダールタ(お釈迦さま)の開いた仏教という同一のものを祖としますが、それぞれの解釈や修行方法などは宗派によって違いがみられます。

そのなかでも、禅宗に分類される臨済宗の場合は、坐禅を非常に重要視します。

坐禅を行うことで人は自らの力で悟りを得、それによって浄土に導かれると考えます。坐禅をすれば、だれしもが持つ純粋で混じりけのない人間性を得ることができるとされているのが大きな特徴です。そしてこの純粋さを持てば、人の持つ尊さを感じられ、仏様と同じように感じることができるとしているのです。

この「坐禅による自力での救済」は、ある意味では、浄土宗や浄土真宗にみられる「仏様による他力での救済」と対極にあるものです。ただこれはもちろん、「臨済宗が正しいか、浄土宗(浄土真宗)が正しいか」という話ではありません。それぞれが別の解釈をしている、と考えるべきです。

また、臨済宗の坐禅においては、「質問の提示と答え」がみられます。師が質問や問題を投げかけ、弟子がそれに答えます。この「答え」は、頭だけで考えたものではなく、精神の統一などによって求められるものだとされています。

臨済宗は本尊を定めません。ただ、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)や薬師如来(やくしにょらい)、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)などを本尊としてお祀りしているお寺もみられます。

また本尊を定めないことから想像がつくかもしれませんが、臨済宗においては、「これを唱えるべし」という特定の経典はありません。悟りとは言葉では説明できないものと考えるからです。般若心経などを読むこともありますが、「念仏を繰り返し唱える」ということはしていません。また般若心経だけでなく、観音経などが読まれることもあります。

世界遺産に認定されている天龍寺などのように著名なお寺を擁する臨済宗の教えは、浄土宗や浄土真宗と対比させてみていくのもよいでしょう。「禅によって悟りを開く」とする自力救済を旨とするする臨済宗は、浄土宗や浄土真宗とはその考え方が大きく異なるからです。

臨済宗を信仰する人の割合は、愛知県(特に名古屋)や京都、また聖福寺がある福岡県などに多いとされています。それ以外にも東京や神奈川県にも臨済宗を信仰する人が多くみられます。