「桃の節供」である3月3日は、今は「女の子の日」として広く知られています。
そのような考え方が浸透するに従い、桃の節供が「五節句のうちのひとつである」という原則を意識しない人も増えてきたといえるでしょう。
今回はこの「桃の節供」について取り上げます。
なお、現在は「桃の節句」とすることもよくあります。ただここでは、もともとの呼び方である「桃の節供」として解説していきましょう。
<桃の節供は、五節句のうちのひとつ>
「桃の節供」は、五節句のうちのひとつです。
五節句とは、
・1月1日(人日)
・3月3日(上巳)
・5月5日(端午)
・7月7日(七夕)
・9月9日(重陽)
の5つを指すものです。日本の宮廷において、このタイミングでさまざまな行事が行われていました。江戸幕府が祝日と定めたもので、この考え方は現在もかたちを変えながら生き続けています。ただし、かつてはこれらの日すべてが祝日でしたが、現在「祝日」というかたちで残っているのは5月5日の端午の節供・子どもの日だけです。なお、この五節句には節供料理が用いられていましたが、現在は1月1日の「お節料理」としてこれが残るのみとなっています。
このようにして誕生した桃の節供は、現在では「女の子の日」「女の子のお祭り」とよく解釈されています。しかしもともとは、桃の節供には「女の子の日」という意味合いはありませんでした。
次の項目では、桃の節供の成り立ちやもともとの考え方について解説していきます。
<桃の節供の起源は今から1700年ほども前にさかのぼる>
桃の節供の起源は、今から1700年ほども前にまでさかのぼることができます。古代中国でみられた「上巳節(じょうしせつ・じょうみせつ)」がその起源でした。もともとは「3月3日」と定められたものではなく、「旧暦における、3月の最初の日」が上巳節とされていました。現在でこそ、「桃の節供とは言っても、この季節には桃はまだ開花していないのでは?」と思われがちですが、旧暦の3月は3月の終わりから5月の初めごろにあたりますから、それほど不自然ではなかったといえましょう。
「その年の3月の初めを上巳節とする」という考え方は理にかなってはいましたが、ただ毎年のことですから、日にちが変わることがないように……と、3月3日が上巳節とされたとされています。なお上巳の日は、「三が重なる日」ということで、「重三の節供(ちょうさんのせっく)」とされることもあったといわれています。これがやがて日本に伝わり、人日・端午・七夕・重陽とともに、「五節句」になったわけです。
今でこそ「女の子の日」「女の子のお祭り」という性格を持つ桃の節供ですが、桃の節供がおこったころにはこのような性格は持ち合わせてはいませんでした。春の訪れを喜び、春の息吹を感じることができるこの日は、無病息災を願うための日として定められていました。女の子だけではなく、老若男女問わず、無病息災のための厄払いをしたとされています。
<桃の節供の日には何をした? 桃の節供、今昔物語>
繰り返しにはなりますが、昔の「桃の節供・上巳の日」は、女の子のためだけのものではありませんでした。そのため、昔と今では桃の節供に用いられるものや行われる行事にも大きな違いがみられます。
かつては、桃の節供・上巳の日は貴族などの余裕がある人のためのものでした。この日には無病息災のお祓いをするのだということで、現在もメディアなどでよく取り上げられている「陰陽師」を招いて厄払いをしていました。無病息災のための祈りを行うほか、人形を用いたお祓いも行われました。「人形」は文字通り「人の形」をしたものであり、「形代(かたしろ)」とも呼ばれていました。この人形・形代に、自分が負うことになるであろう災難や病気を背負わせて肩代わりしてもらえる……と当時の人々は信じたわけです。
そしてこの人形・形代を海や川に流すことで、厄除けができると考えていました。なお、人形・形代を乗せるためのものとして、桟俵(さんだわら。米俵の上下に充てるもので、わらで作られた丸い蓋のことをいう。「さんだらぼっち」とも呼ばれる)が用いられました。
当時は貴族たちの間で桃の節供・上巳の日が行われていましたから、このような厄除け行事を行うと同時に、ごちそうが振る舞われたり、歌合せが行われたりしていたといわれています。上でも述べましたが、桃の節供・上巳の日に限らず、五節句では節供料理が振る舞われていたこともここに繋がります。
さて、このような桃の節供・上巳の日が厄除けの行事である……という考え方は、戦国時代の終わりまで続きました。このころにはまだ、現在のようなひな人形などはなく、あくまで「人間の肩代わりをして、病気や災厄を引き受けてくれるもの」として人形・形代を流すやり方が主流であったわけです。
しかし戦国時代が終わりを迎え、町人文化として名高い江戸時代に入ったころから、少し様相が変わり始めました。さまざまな天災やいざこざはあったにせよ、戦国時代から比べればはるかに平和であった江戸時代においては、年中行事にも注目が集まるようになります。徳川幕府でも桃の節供・上巳の日が盛大に祝われるようになり、このときに「ひなまつり」という考え方が登場したとされています。
「女の子が遊ぶものとしての人形」は、平安時代からありました。これが桃の節供・上巳の日と結びつき、「ひな人形」になったのもこの頃だと考える説があります。子どもが遊ぶかわいらしい人形は「ひいな遊び」と呼ばれていましたが、これが桃の節供・上巳の日で流される人形・形代と一体化し、「ひな人形」になったのだと考えられています。
今までは水に流してしまうものであったひな人形が、「飾るもの」へと変わっていき、またその在り方もどんどん豪華になっていきました。現在では桃の節供・上巳の日に欠かすことのできないひな人形も、このように長い歴史ののちに誕生したのです。
<現在の桃の節供・上巳の日、そのときに用いられるもの>
このようにかたちを変えながらも受け継がれてきた「桃の節供・上巳の日」ですが、現在の桃の節供・上巳の日にも目を移してみましょう。
現在桃の節供・上巳の日でよくみられるものとしては以下のようなものがあります(ひな人形は上で取り上げたので除きます)
・菱餅
・甘酒
・ハマグリのお吸い物
これについて簡単にみていきましょう。
・菱餅
上から、桃色→白色→緑色……となっています。実はこの色の組み合わせや順番にも、意味があります。「新芽(緑色)の上にはまだ雪(白色)が残っているけれど、新芽は芽吹いており、また雪の上には桃の花(桃色)が咲いている」というところから、この順番になっていました。ちなみに、桃色をつけるのに使われるクチナシは解毒作用があるとされていたため、かつては魔除けの色としても親しまれていました。
・甘酒
現在でこそ甘酒を飲むようになっていますが、かつては白酒を飲んでいました。白酒は身の穢れを清めると考えられていたからです。また、白酒は昔は「桃の香りのお酒」の「桃香酒」を表すともいわれています。
白酒は作るのに手間がかかるため、一夜で作ることのできる甘酒もよく用いられるようになりました。
・ハマグリのお吸い物
ハマグリは貝合わせにも使われていたもので、対の貝殻でないかぎりは重なり合いません。このため、夫婦和合の象徴であるとされていきました。また、貞操を表す貝でもあることから、女の子のお祭りの日に用いられるようになりました。
このように、桃の節供には長い歴史があります。現在では「女の子の節供」という意味合いを強く持つものですが、もちろん、老若男女問わずにお祝いをしても良いものです。
楽しんでくださいね。