〔あおき葬祭コラム〕第30回:節分のいわれと仏教の関わり

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2月の行事である「節分」は、現在では多くの人に親しまれる行事となっています。お正月飾りが取りはらわれスーパーなどの売り場から正月用品が撤去された後には、節分のアイテムがずらりと並ぶ……という光景は、だれもが目にしたことのあるものです。

この「節分」の日は、基本的には2月3日とされています。ただ実際には、2月2日~2月4日の間に行われています。ここ37年間はずっと2月3日でしたが、1984年には2月4日に節分が行われています。なお、2021年の節分は2月2日です。2月2日が節分となるのは、実に124年ぶり(その前は1897年)のことで、1世紀以上ぶりとなります。

詳しくは後述しますが、節分は「二十四節気」の1つとされています。これは1年後に少しずつ早くなったり遅くなったりします。今年はこの変動によって日付がかわるタイミングであるため、2月2日が節分となるのです。

今回は、この124年ぶりに2月2日となる節分に注目し、その節分の由来や仏教との関わり方、歴史、どのようなイベントを行うかについて解説していきます。

<節分は二十四節気の考え方に基づく>

上でも紹介しましたが、節分は二十四節気の考えに基づいて作られたものです。

この「二十四節気」とは、古代中国に端を発するもので、1年を24に分けて季節を表す方法でした。その二十四節気において、四季の始まりとされる「立春」「立夏」「立秋」「立冬」は、今でもカレンダーなどに書き込まれています。

そして節分とは、この「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日にあたる日をいうのです。

ここまで書けばわかる通り、本来「節分」は2月2日~2月4日の期間にだけ存在するものではありません。ほかの季節にも存在するものでした。しかし現在では、ほかの季節に節分の行事が行われることはほとんどありません。

これは、「1年の境をどこに置くか」の考え方によるものです。かつては、冬から春にかわるタイミングを「1年の境である」としていました。そのため、この「1年の境(の前日)にあたる節分」が、ほかの節分よりも重くみられたのです。この結果として、立春の前の日である「節分」が、現在の「節分」となって残ったわけです。

<節分は仏教とも関わりあり! その歴史は平安時代にまでさかのぼる>

「二十四節気は古代中国から伝わってきた考え方であり、そのなかでも立春の前日の節分が『現在の節分』となった」と解説しました。ただ、日本における節分の成り立ちには仏教も関わっていることについても解説していく必要があるでしょう。

インドを発祥とする仏教は、やがて中国に伝わりました。そしてその中国から日本に伝わってきた仏教は、時の権力者らの庇護もあり、日本にも広まっていきました。節分もその過程で、仏教の行事として取り入れられるようになったと考えられています。

日本における、「仏教と節分の関わり」の歴史は非常に古いといえます。その歴史は平安時代にまでさかのぼるといわれており、時の天皇である白河天皇によるものだったとされています。現在でも残る壬生寺(京都)で、節分厄除大法会(せつぶんやくよけだいほうえ)が行われ、ここからほかのお寺にも節分の考え方が広まっていたと考えるのが妥当です。

そして各地で、節分のための「節分会」が行われるようになりました。

節分が、「鬼をはらうものであること」は、子どもであっても知っていることです。しかし仏教ではこの「鬼」を、自分の中に見出します。鬼は外からやってくるもの・外に存在するものではなく、自分の中に存在するものと考えるのです。その鬼は、仏教においてはらうべきものとされている、「自身の心の中に存在する煩悩」としています。除夜の鐘はこの煩悩をはらうものとされていますが、節分においても同じ考え方をとるわけです。煩悩をはらうための大晦日の行事が除夜の鐘(をつくこと)だとするのであれば、節分は新しい季節(春)にむけて煩悩をはらう行為だといえるでしょう。煩悩をはらった清らかな気持ちで新年を迎えたいという思いは、大晦日の除夜の鐘も、立春の前の節分のときも同じだといえるのかもしれません。

現在は当たり前になった「豆をまく」という風習も非常に古いもので、節分厄除大法会が行われた時期とほぼ時を同じくして発生します。豆まきの風習が何年にできたものか、正確な数字はわかりませんが、平安時代の後期にはすでに存在していた文化とされています。ただし、現在のように「鬼をはらうためである」という理由付けがされたのは、室町時代に入ってからだとされています。

かつて、文化は天皇や公家、貴族の間で発生し、時代が経つにしたがって庶民の間にまで広まっていくことが多かったといえます。豆まきの風習も例外ではありません。平安時代の後期には天皇や公家、貴族のものであった豆まきの文化は、江戸時代に入ると庶民の間でも広くみられるようになりました。また、寺院でも豆まきが行わるようになり、現在の「節分=豆まき」という風習ができあがっていきます。

<節分では何をする? まく豆はどんなもの? 恵方巻の由来とは>

最後に、「節分では何をするか」について紹介していきます。

すでに紹介したように、節分で行うことといえば、やはり「豆まき」です。「鬼は外、福は内」という掛け声は、だれもがきいたことのあるものでしょう。

ちなみになぜ豆をまくのかについては、きちんとしたいわれがあります。「豆」は「魔の目(まのめ)」に通じるとされており、これを鬼に投げつけて鬼を退治すること(魔滅)に通じると考えるのです。このため、豆まきが節分の行事とされるようになりました。ちなみに豆は炒って使うのが正式ですが、これは「魔目を射る」ことにつながっているとされています。

「おせち」についても同じことがいえますが、昔からごろあわせに意味を見出してそれを行事に取り入れることが、日本では頻繁に行われています。

一般的に、豆は大豆を使います。ただ、実はこれには地方差があります。一部例外はあるものの、日本の北半分は落花生、東西は大豆をまくのが一般的なのです。ただ、落花生の方は比較的歴史が浅く、北海道などでは昭和30年~40年ごろにかけてみられるようになった風習とされています。落花生は殻に包まれているため衛生的であり、回収も容易という合理的な理由によるものなのだそうです。

現在は当たり前の食べ物となった「恵方巻」は、その年の恵方の方角(2021年は南南東)の方向を向いて、無言で、丸一本を食べきるべし……とされています。これに関しては御存じの人も多いかと思われますが、恵方巻の歴史は非常に浅く、1898年に広島県でコンビニエンスストアが「恵方巻」の名前で打ち出したのが最初だといわれています。この風習は一気に広まり、時を待たずして、全国へと広がっていきました。現在ではコンビニエンスストアのみならず、デパートなどでも広く取り扱われています。豪華な具材を入れた予約制の恵方巻なども出ていますね。

節分の歴史と豆まきの歴史は古く、落花生や恵方巻の歴史は短い……。このように、伝統的な行事であっても、そこに取り入れられるものの歴史には長短があります。しかしこれらを柔軟に取り入れていくことで、季節の行事はもっと面白くなりますし、もっと生活にハリが出ます。いろいろと取り入れていきたいものですね。