仏教用語のなかには、「一般的な言葉」として広く浸透している言葉があります。「諸行無常(しょぎょうむじょう)」もそのうちのひとつでしょう。
ただ広く知られている言葉だからこそ、奥深さも持っているものです。
今回の記事では、この「諸行無常」について取り上げていきます。
<一般的な言葉としての「諸行無常」について>
「諸行無常」は、広く知られている言葉であり、国語辞典などにも載っています。
たとえば、「諸行無常」とひくと、“「[仏教]この世のものはすべて移りかわって、わずかのあいだもとどまっていない、という仏教の根本思想―引用:角川最新国語辞典|山田俊雄・石綿敏雄編P498”とあります。人生の無常を指す言葉であり、この世の中の事物の儚さや移り変わりについて取り上げている言葉です。
この「諸行無常」を使った文章のなかで、もっとも有名なのは、やはり平家物語の冒頭部分でしょう。
“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。―引用:大辞林特別ページ「平家物語」http://daijirin.dual-d.net/extra/heike.html”です。この後には、同じ「仏教」で特別な樹木とされる沙羅双樹(お釈迦さまが亡くなられたときに、その頭上に咲いていたとされる樹)の花の色も、「栄えていた人間もいつかは必ず衰え滅んでいくのだ」と続きます。加えて、「短いもの」の象徴である「春の夜の夢」を取り上げ、人間の世界が決して不変ではないこと、隆盛を極めていた勢力もやがては滅んでいくのだということを謳いあげます。
この冒頭部分は非常に多くの人が知っている部分であり、学校でも習うことから親しみやすいものだといえます。
このように、「諸行無常」とは「儚いもの」「永遠ではいられないこと」「すべてのものは移り変わっていくこと」「どれだけ隆盛を極めても、それはいつか必ず終わりが来ること」を象徴する言葉だといえます。「諸行無常」と並んで語られる「春の夜の夢」「風の前の塵に同じ」などとされていることからも分かるように、現在では、儚さとそれに伴う寂しさや切なさを表す言葉として使われることが多くなっているといえます。
<もともとの「諸行無常」の意味と仏教の考え方について>
平家物語をひくまでもなく、私たちは常にどこかで「変化したくない」という気持ちを持ち続けています。自分の力や権力が強ければそれを失いたくないと思うでしょうし、友人や恋人、配偶者や子どもから寄せられる愛情は永遠であってほしいと考えることでしょう。また単純に、いつまでも若々しくて力が強く、自分の自由になる体を維持したいと考える人もいます。「人間」だけでなく、「お気に入りの服がいつまでもきれいであるように」「お金をかけて建てた家が、いつまでも傷まないでほしい」と願うこともまた、とても自然なことです。
しかしこれらは、決して永遠ではありません。
私たちは年を取り続けますし、人から寄せられる愛情は(良い方向にしろ悪い方向にしろ)必ず移り変わっていきます。また、人間は年をとることを止めることはできませんし、服や家も傷んでいきます。
これを「諸行無常」としていますが、仏教では「諸行無常=寂しいこと」「諸行無常=悲しいこと」とはとらえません。
平家物語の冒頭部分などはどこか寂寥感に満ちていますし、「永遠ではないこと」「変化していくこと」は私たちにとってとても辛いものです。しかし仏教用語としての「諸行無常」は、単純に「人にも物事にも終わりや変化がある」ということだけを説いているのです。このため、「諸行無常」という言葉自体には、悲哀や切なさ、悲しさは存在しません。
この点は、一般的に使われる「諸行無常」という言葉が抱かせるイメージとの大きな相違点だといえます。
このような考え方の違いは、仏教の考え方の根底にも関わります。
仏教では、「今のままでいたい」「若いままでいたい」「変化しないでほしい」と考えることは、すなわち「欲求であり、欲望である」と考えます。そして、このような欲求や欲望を持っている限り、人はそれにとらわれて苦しみ、悩むとしているのです。
人が変わっていくことや自分自身が老いていくこと、そしてその末に死ぬことは、だれにでも必ず起こることです。このためこれらに対して、必要以上に悲しみを抱いたり恐れを抱いたりすることは無意味なことだと仏教では考えます。これらの変化を当たり前のものとして受け止めた先にこそ、心の平穏があるとするのが仏教です。
この考え方に基づくのであれば、「諸行無常」とは決して「変化したり失ったりすることの寂しさや切なさ」を表す言葉ではなく、「変化したり失ったりすることは当たり前のことであるから、それを受け止めることで心の平穏を得よう」と説く言葉だと分かるでしょう。
<諸行無常は仏教の根幹ともいえる考え方である>
「変わってほしくない」「変わりたくない」という考えは、人がだれでも持つものです。しかしこの考え方こそが苦しみや悩みを生み出し、心の平穏を遠ざける……と考えた「諸行無常」は、「手放すこと」「物事への執着には意味がないこと」を表す言葉だともいえます。
人にとって捨てることの難しい欲求であるからこそ、諸行無常は「仏教の根幹の考え方のひとつ」だといわれています。
この「仏教の根幹の考え方」は、諸行無常のほかにあと2つあります。
1つは「諸法無我」、そしてもう1つは「涅槃寂静」です。最後にこの2つについても簡単に触れていきましょう。
「諸法無我」は「しょほうむが」と読みます。諸法無我とは、「すべての事柄は状況によって変化するものであるから、絶対的なものは存在しない」とする考え方です。たとえば「自分」という存在にしても、今まで食べてきたものや付き合ってきた人の性質、学んできたものによって作り上げられたものであり、それらが違ったら「今の自分」はなかったといえます。
「自分」という絶対的に見えるものであってさえ、状況や周りの因縁によって変わっていくものであり、絶対的なものではないとする考え方を「諸法無我」とします。
「涅槃寂静」は「ねはんじゃくじょう」といいます。
私たちは、「死んだら解脱ができる」「死んだら悟りの境地に至れる」と考えてしまいがちです。しかし仏教は、基本的にはこのような考え方は否定しています。
仏教の考え方として「輪廻転生」があります。輪廻転生をすれば、人はまた、新しい生で新しい悩みを抱くことになります。このため、死=悟り、とはいえないのです。
しかしそれでも、仏教を学び、真実に近づくことによって安らかな心に近づくことはできます。そして、この心穏やかな境地に至ることを「涅槃寂静」というのです。
「諸行無常」も「諸法無我」も「涅槃寂静」も、言葉だけで解説することはなかなか難しいといえます。ここではざっくりと紹介しましたが、「そのような境地に至れないからこそ悩んで苦しんでいるのだ」という人もいることでしょう。ただ、言葉の意味や仏教の考え方に触れることは、仏教を信じる人にとってはとても意味のあることだといえます。
注:なお、今回は仏教の考え方を取り上げていますが、もちろんこのような考え方が万人に当てはまるものだとまでは断言はできません。キリスト教にも神道にも、またそれ以外の宗教にも、それぞれ基本となる考え方があります。また仏教でも、宗派ごとによって考え方は異なります。