〔あおきの葬祭コラム〕第124回:家紋の歴史~武家の家紋、戦国時代における家紋とは

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「家紋の歴史」「家紋のデザイン」「家紋のエピソード」を3回に渡ってお送りしているこのコラムですが、前回は「平安時代や公家文化における家紋」「日本の家紋と、外国の紋章の違い」などについて取り上げてきました。

今回はさらに時代を近代に近づけて、「武家の家紋(戦国時代の家紋)」「江戸時代の家紋」について解説していきます。

<武家の「家紋文化」の始まりはどこからか?>

多くの人が「家紋の文化」といえば、戦国時代の戦国武将の家紋を思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、武家に家紋の文化が広まっていったのは、それほど早い段階ではありません。

もともと「家の格」を分かりやすく示すために公家・貴族階級のなかで広まった家紋の文化でしたが、武家社会へと移り変わっていく鎌倉時代の初期の武家はこの家紋を取り入れていなかったと考えられています。たとえば、弟源義経とのエピソードでも有名な鎌倉幕府の初代征夷大将軍であった源頼朝は、まだ家紋を持っていなかったとされています。もしも武家社会において家紋文化がすでに広がっていたのだとしたら、大将軍であった源頼朝がこれを持っていなかったとは考えにくいので、武家社会における家紋はその後に出来たのではないかと考えられています。

ただ、源氏と平氏の盛衰を決めることになった源平合戦では、源氏方は白旗を、平氏方は赤旗を掲げていたとされていて、このように「色でお互いを分けること」が武家における家紋のルーツになったのではないかと考えられています。

「武家の家紋の歴史」がどこから始まっていったのかは、まだはっきりとはわかっていません。ただ、一般的には、12世紀末ごろから13世紀初頭にかけて広がっていったものだと考えられています。

<武家の「家紋」の意味と、そのデザインについて>

公家文化としての「家紋」は、家の格などを分かりやすく示すためのものでした。これはこれで無用な争いを避けて、効率よく振る舞うために意味があるものでした。

しかし武家の家紋はもっと現実的な意味を持ちます。

関ヶ原の合戦を持ち出すまでもなく、このときに行われる戦争は、敵と味方が入り乱れて行うものでした。そのため、斬り結ぶ相手、あるいは射る・撃つ相手が、自分の味方でないことを確かめなければなりませんでした。このようなことから、それぞれの家や陣営を示す「武家の家紋」が生まれたのです。やがて武家の家紋は、戦場で振られる旗はもちろん、陣地にはりめぐらされる幕や、個々人の武具(鎧や兜など)にも用いられるようになります。

「より装飾的に、より上品に、より優美に」と願い発達していった公家の家紋とは異なり、武家の家紋は基本的にはシンプルな図柄をとっています。たとえば江戸幕府を開いた徳川家の家紋のデザインも、葵をモチーフにした非常に簡素なデザインのものです。

これは、上記でお話しした「武家の家紋が用いられた理由」によります。戦場ですぐに敵味方を見分けられるように、そして遠方からでもそれを認識できるように、シンプルで分かりやすいデザインが採用されるようになったのです。

たとえば、足利家の家紋は、「足利二つ引き」と呼ばれる非常にシンプルなデザインをしています。丸(○)のなかに、縞模様を入れたものであり、とても簡素です。また、田沼家の家紋に至っては黒丸を7つ配置した「七曜」と呼ばれる簡潔極まりないデザインのものですし、蜂須賀小六などでよく知られる蜂須賀家の家紋は○に左卍を配したものです。

もちろんこれは一例ではあります。武家の家紋であってもとても繊細で細かな装飾が見られるものもあります。戦国の名軍師として知られる黒田官兵衛を輩出した黒田家の家紋は「黒田藤」と呼ばれる細かな線が入った藤の花で構成されていますし、豊臣家の家臣として戦った大谷吉継の大谷家の家紋は、向かい合った蝶をモチーフにした複雑なデザインをしています。

なお、武家の家紋は公家の家紋とは異なり、その数が非常に多いという特徴があります。なぜなら武家の家紋は、単純に「苗字」で固定されたものではないからです。戦国時代においては同じ苗字・親戚筋にあたる相手と戦うこともよくあったため、これを差別化しやすいように、同じ苗字であっても異なる紋章を持つことがあったわけです。

ただいずれの場合であっても、縁起が良いモチーフを家紋に組み込んだり、鳥の羽や動物をモチーフとしたものが多かったりしたと指摘されています。

<「武家の家紋」にまつわるエピドードについて>

ここまで「武家の家紋の成り立ちと、そのデザイン」について紹介してきました。

最後に、「武家の家紋が絡んだエピソード」について紹介していきます。

武家の家紋にまつわるもっとも有名なエピソードは、やはり「織田信長VS明智光秀」の話でしょう。

天下人間近といわれていた織田信長を、その部下であった明智光秀が京都の本能寺で討ち取ったあまりにも有名なこの歴史的な出来事は、後世において数えきれないほど多く創作物で描かれ続けてきました。

明智家の家紋は、美しい水色の桔梗の家紋だったといわれています。このような配色の武家の家紋としては珍しく、織田信長自身もそれを羨ましがっていたとも伝えられています。

本能寺にて急襲をかけられたとき、織田信長はその兵士の掲げる旗に、この水色の桔梗の家紋を見たと伝えられています。そしてそれによって、自分が明智光秀に裏切られたことを知ったと伝えられています。

燃え盛る本能寺のなかで、織田信長は「是非に及ばず」と呟いたとも、「敦盛」を舞ったともいわれています。その死の瞬間を見た人間は今はだれひとりとして生きていませんし、後世に伝えられるこれらのエピソードのすべてが真実だと断言することも難しくはあります。しかし日本の歴史において大きな転機となった「本能寺の変」において、武家の家紋が大きな意味を持っていたことは、この話が示しています。

もうひとつ、武家の家紋にまつわるエピソードをお話しします。

武家の家紋が非常に多くの種類があることはすでに述べた通りですが、そのなかでもとりわけ珍しいものがあります。

それが、石田三成の家紋です。

石田三成は、豊臣家に忠誠をつくした武将のうちのひとりです。徳川家打倒のために立ちあがり、そして関ヶ原の決戦で敗れ、40歳の年に処刑されてその命を終えます。

彼の評価は人によって大きく異なりますが、ここではその「評価」自体は取り上げず、彼の残した「石田三成の家紋」について取り上げましょう。

石田三成の家紋は、「大一大万大吉」という6つの漢字を1つにまとめたものです。「模様」ではなく「文字」で作られたこの家紋は、武家の家紋のなかでも異彩を放っています。

この言葉は、「一人が万人のために、そして万人が一人のために尽くせば、天下の人々はみな幸福になるのだ」という意味を持っています。英語で言うところの“one for all.all for one”という昔から伝えられてきた志をそのまま家紋に写し取ったものだといえるでしょう。

これは石田三成の持つ理想を表したものだとされています。

ただ、石田三成を象徴するこの家紋ですが、実はこの家紋は、江戸時代の初期の資料には見られない記述だといわれています。そのためこれは後世になって、敵方であった石田三成を貶めるために、徳川家が捏造したものなのではないかとする説もあります。

生死が常に隣り合わせに存在していた武家において、「武家の家紋」は文字通り命に関わるものでもありました。

連載最後の次回は、「江戸時代以降の家紋の歴史」について解説していきます。