2023年に開幕するNHK大河ドラマは、天下人としてその名前を知られる戦国三傑の一人「徳川家康」を取り上げています。
第1回から第5回まで5回にわたって、ここではその徳川家康と関係の深いお寺・神社を紹介していきます。
第2回にあたる今回は、「元城町東照宮」を取り上げていきます。
<元城町東照宮は、現在の静岡県浜松市にある神社です>
元城町東照宮は、現在の静岡県浜松市にある神社です。この神社は、かつて徳川家康が住んでいた場所の跡地に建てられています。
ここに至るまでの徳川家康の歩みについて解説していきます。
ほんの小さな子どもの時分から19歳になるまで人質として過ごしてきた徳川家康は、それから5年後の24歳のときに、三河国(現在の愛知県東半部にあたる場所)を平定し、これを統一します。
意外に思われるかもしれませんが、私たちがよく知る「徳川家康」という名前は、彼が大人になってから得たものです。幼名は「竹千代」といいましたし、元服したころは次郎三郎元信と名乗っていましたし、さらに初陣を飾った16歳のころは「元康」という名前になっていました。また苗字も、現在よく知られた「徳川」ではなく、父・松平広忠(岡崎城の城主)の苗字である「松平」を名乗っていました。
彼が「家康」の名前を得たのは21歳のときであり、さらに「徳川」の姓を得たのはなんと24歳になってからです。先に挙げた「三河国の平定」を朝廷が認め、彼に位を授けるときに、「徳川」の姓も送ったのです。これによって、現在にも引き継がれている「徳川家康」の名前が完成したわけです。
さて、「徳川家康」の名前を得てから2年後の1568年に、徳川家康は「引馬(曳馬とも)祖城」を攻略します。この引馬城は、女性の城主であるお田鶴の方によって治められていました。
彼女は今川氏の家臣であり、かつこの引馬城の城主であった飯尾連龍の妻でしたが、今川家の当主今川義元が織田信長に打たれてしまったため、彼女の夫を含む今川家の家臣は混乱に陥ります。結果的に彼女の夫は今川氏の跡継ぎに従うことを選んだのですが、その裏で徳川家康と内通もしていました。そのことを知られ、飯尾連龍は処刑されてしまいます。
夫の死から3年間、彼女は女城主として引馬城を守っていましたが、その城に徳川家康は進軍していきます。なおこのとき徳川家康は、かつて自分と内通していた人間の妻であったお田鶴の方に、「城を明け渡しさえすれば処刑することなく命を助け、一族全員の面倒を見る」と告げたとされています。これは戦国の時代にあっては破格の条件でしたが、武家の女として生きてきたお田鶴の方はこれを承服せず、開城を拒み、鎧兜の姿で侍女とともに戦い、壮絶な討ち死にをしたと伝えられています。
このようにして果てた彼女は、18人の侍女ともども徳川家康によって手厚く供養されました。徳川家康は、最後まで武家の人間として戦いぬいた彼女をほめたたえたと伝えられています。また、徳川家康の制裁であった瀬名はお田鶴の方と親戚関係にあったこともあり、彼女の墓所に100本の椿を植えて、その死をいたく悼んだとされています。ちなみにこの場所は「椿姫塚」「椿屋敷」と呼ばれていましたが、今も「椿姫観音」として浜松に現存しています。
<引馬城のその後>
このようにして落城された引馬城は、現在は引馬城としてはその姿をとどめてはいません。なぜなら引馬城は、現在の静岡の一大観光地のうちの一つ「浜松城」に取り込まれることになったからです。
浜松城は非常に広大な城ですが、そのなかの一部としてこの引馬城が組み込まれたわけです。
元引馬城・現在の浜松城は、その後長く徳川家康の居住地となります。彼は実に17年もの長きにわたり、元引馬城・現在の浜松城に滞在し続けます。彼はそののち駿府城(静岡県の葵区にある城)に移ることになりますが、元引馬城・現在の浜松城は、徳川家康が天下人になるための大きな足掛かりになったとされています。
加えてこのお城はそれ以降も重要な城であり続け、260年にわたり、実に25人の城主を誕生させたという歴史もあります。城主らのなかにはその在任期間中に幕府の要職についた人間も多いうえ、徳川家康と同じように戦国時代の名将として知られる豊臣秀吉もまた、この引馬城に3年ほど奉公していたとされています。このことから、この城は特に「出世城」と呼ばれています。
なお名前の「引馬」ですが、これは負け戦をイメージさせる「馬を引く」につながるとされていました。「浜松城」という名称は、この名前を嫌った徳川家康によってつけられたとされています。 ちなみに現在も静岡県の浜松市では、地名として「曳馬」が残っています。
<在りし日の引馬城を偲ばせる場所~元城町東照宮について>
さて、このようにして「引馬城」という城自体は浜松城に取り込まれたことによってその姿を消しました。
しかしそれでも、引馬城につながるものが現在も残されています。
それが、「元城町東照宮」です。
元城町東照宮は、かつて引馬城があった場所に建てられています。これは、「徳川家康の立身出世の足掛かりとなった城がここに立っていたのに、その家康を奉るための東照宮がないのはおかしい」と考えた井上延陵によって建てられました。彼は江戸時代から明治時代までを生きた人物であり、幕臣のうちの一人でもありました。
もっとも、「元城町東照宮を奉るための東照宮」として建てられた元城町東照宮が完成した時代には、家康は生きていません。元城町東照宮は、家康が亡くなってから270年以上経ってから建てられた東照宮なのです。
元城町東照宮は1945年、第二次世界大戦中に浜松空襲によって被弾、燃え上がり、その姿を失うという波乱にも見舞われます。ただし石で作られた鳥居だけは残り、現在も引き継がれています。その後、元城町東照宮は小さな社を整えることから始めて再建、さらに時代がくだり、現在では非常に美しく整えられています。なお現在の元城町東照宮が建てられたのは1958年のことです。初めて作られた元城町東照宮の姿はすでに見ることはできませんが、今の元城町東照宮もまた65年近くの歴史を持っているわけです。
浜松城が出世城だと言われているのと同様に、その浜松城に取り込まれた引馬城の跡地に建てられた元城町東照宮もまた、「出世神社」と呼ばれています。現在の元城町東照宮は決して大きな神社ではありませんが、このようなバックボーンを持っているため、現在も多くの人が徳川家康・豊臣秀吉の立身出世にあやかろうと、この地を訪れています。また、「パワースポット」という言葉が認知されるようになってからは、「一番のパワースポット」としてこの元城町東照宮が取り上げられることもよくありました。
上記の説明からもイメージしやすいかと思われますが、この元城町東照宮は浜松城のほど近くにあります。浜松城から10分もかからない位置に元城町東照宮はあるため、「浜松城を見てから元城町東照宮に」「元城町東照宮を訪れてから浜松城に」という楽しみ方もできます。
壮絶な歴史を持った城の跡地に建てられた元城町東照宮ですが、今はただその静けさを守り、「出世神社」として人の信仰を集める場所となっています。立身出世を目指す人は、この元城町東照宮を訪ねてみてもよいのではないでしょうか。