仏教の概念のなかには、現世に生きる私たちにとってはなかなか理解が難しいものもあります。また、現在一般的に使われている言葉と同じ響きを持っている言葉であっても、仏教の世界で使われるときには違う意味を持つ言葉もあります。
そのうちのひとつが、「悟り」です。
今回はこの「悟り」を取り上げ、
・そもそも悟りとはどういう意味を持つ言葉なのか
・一般的に使われている「悟り」と、仏教における「悟り」の違い
・悟りの52段階
について解説していきます。
<悟りとは、仏教用語においては「真理を知り、迷いの心境に至ること」をいう>
「悟り」という言葉は、日常生活でもよく使う言葉です。
一般社会で「悟り」という言葉を使う場合は、「物事を理解すること」「物事の意味に気づくこと」「物事を受け入れて、ある種のあきらめの境地に至ること」という意味を持ちます。目の前にある事象を理解し、それを自らの内に受け入れる……といった意味合いで使われることが多いものです。たとえば、「恋愛に関してもう悟りの心境にある」などのような言い回しをします。
しかし仏教用語として「悟り」を使う場合は、また意味が変わってきます。
仏教用語として「悟り」とした場合は、「物事の真理に気づき、心の迷いをふりほどくこと」という意味合いで使われます。真理を自らのものとし、一切合切の悩みや迷いを振り落とした状態をこそ「悟り」というのです。
「厳密には異なる」と言われることもありますが、「悟り」と「解脱(げだつ)」は非常に似通った意味で使われます。解脱とは、「現世に生きるときに抱く苦しみや悩みから解放されて、自由な心境に至ること」という意味を持っています。ちなみにこの「解脱」という言葉は、サンスクリット語から来ているものであり、解脱した人間を特に「解脱者」と呼びます。
また、「悟り」とほぼイコールで語られる言葉として、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」という言葉が挙げられます。この「涅槃寂静」は、仏教を信じるものが最終的に至ることを目指すべき「悟り」の心境であるとされています。
私たちは生きているときに、さまざまな悩みを抱えます。たとえば家族や友人、恋人との不和の悩みであったり、学校や勤務先でのトラブルが起きたことで苦しみを抱えたり、病やけがで心まで痛めたりします。また、貧しいことに思い悩んだり、老いていくことに恐怖を抱いたりすることもあるでしょう(ちなみにこのような悩みは、「四苦八苦(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)」としてまとめられます)。
このような悩みを抱くこと自体は、人間として当たり前のことです。しかし、すべてのもの事は移り変わりゆき、苦しみも喜びも永遠ではないという「諸行無常」の事実を知ることができれば、そこから「涅槃寂静」にまで至ることができるとされています。
そしてこの涅槃寂静(悟り)の心境に至ることができれば、四苦八苦、この世に存在するあらゆる悩みにとらわれた生活から解き放たれます。
このように考えていくと、涅槃寂静(悟り)に至ることは仏教の最終的な目標地点であり、また人間として生きていくときにその心を非常に楽にしてくれる手段だといえるのかもしれません。
なお仏教では、この涅槃寂静(悟り)の心境に至るための道として、「四諦八正道(したいはっしょうどう)の実践」を掲げています。この四諦八正道では、「人は物事がすべて移ろいゆくこと(諸行無常)をなかなか認識できないが、これを理解できるようになって、さらに物事への渇望と執着を捨てれば、涅槃寂静(悟り)の心境に至ることができる。そして、その涅槃寂静に至るためには、
・正しい見方をすること
・正しい決心をすること
・正しい言説を心掛けること
・正しい行いを実践すること
・正しい日々を送ること
・正しく物事に励み、実践すること
・正しい思いを抱き、物事の真理を追究しようとすること
・正しい瞑想や禅定を行い、心を正しい方向に定めていくこと
を実践するとよい」としています。
つまり四諦八正道は、なかなか涅槃寂静(悟り)の心境に至ることができない信者に対して書かれた、涅槃寂静(悟り)への教え・教科書だといえるでしょう。
<悟りには段階がある? 悟りの52の段階について>
「仏教」と「悟り」は切っても切り離せない関係にあるものであり、悟りの心境を目指すことこそが仏教の目的だといえます。しかし実はこの「悟り」には、52の段階があります。
52の段階は、
1.十信
2.十住
3.十行
4.十廻向
5.十血(十聖とも)
6.等覚
7.妙覚(「仏覚」「無上覚」「阿耨多羅三藐三菩提・あのくたらさんみゃくさんぼだい」とも)
に分けられています。1~5までは、文字通りさらに10の段階に区別されています。1~10が「十信」、11~20が「十住」、21~30が「十行」、31~40が「十廻向」、41~50が「十血」となっていて、その上の51が「等覚」、52が「妙覚」です。
番号が小さいほど未熟な段階であり、番号が大きいほど真の悟りを得た段階であるとされています。
もう少し詳しくみていきましょう。
1の十信の段階は、「外凡」とも呼ばれるものです。これは、出家せずに在家で仏教の修練に励む人間を指す言葉です。
2の十住から4の十廻向までは、「内凡」あるいは「三賢」と呼ばれているもので、出家をして仏教の修行を積む者をいいます。
この1から4の段階は、まとめて「善凡夫」あるいは「退転位」とされます。ここの属する人たちは仏道を歩み修行をしている人たちではありますが、うっかりすると悟りの心境が崩れてしまうという段階にあります。
鎌倉時代の僧侶である明恵は十廻向の40位に属していた僧侶でしたが、おいしい雑炊を食べたときについ食事の喜びに心が躍りそうになって悟りが崩れそうになったり、大切にしていた数珠を取り落としそうになったときに心が動揺して開いた悟りが崩壊したりしたとされています。
対して、5の十血以上の段階になると、どのような状況にあっても悟りが崩れることが亡くなります。このため、5~7の段階は「不退転位」あるいは「聖者」と呼ばれます。また、十血と等覚は、特に「菩薩」と表記されることもあります。
この段階に至った人というのは、あらゆる煩悩から解き放たれた存在とされています。
なお、「等覚」は「次の段階で仏になる者である」と考えられています。しかし「妙覚」にまで至った地球上の人物は、仏教をひらいた教祖であるお釈迦様(「仏陀」「ゴーダマ・シッダールタ」)だけだとされています。仏教の歴史は紀元前6世紀から始まり、2022年の現在まで2600年近くの長きにわたり続いていますが、その長い歴史のなかで、妙覚まで至ったのは、開祖ただ一人なのです。ちなみに、41位である「十血」に至った人は2人いて、その名前(「龍樹菩薩」「無著菩薩」)も伝わっています。
このように考えていくと、仏教の悟りの段階は非常に多くあり、そしてその階段を上るのがいかに難しいかがよくわかります。しかしたとえ高位の段階に至れなかったとしても、仏教の修行を積み、修行をしていくことには意味があります。
※なお段階分けは、宗派によって違いもみられます。ここでは広く使われている説を用いて解説してきましたが、これが絶対的な「正解」ではありません。そのため、別の呼び方を取るところもあります。