11月から5回に渡って、徳川家康とその徳川家康に深い関わりのあった寺社仏閣について取り上げてきた本連載ですが、その締めとなる今回の更新では、「久能山東照宮」を取り上げます。
征夷大将軍となった徳川家康のそれ以降の歩みと、彼が祀られることになった「久能山東照宮」について解説していきます。
<豊臣家、最後の灯~大阪冬の陣と夏の陣>
艱難辛苦を味わい、そしてこれを乗り越えてきた徳川家康が、征夷大将軍となったのは1603年のことです。征夷大将軍とは武家における最高位であり、この地位に就いたことで徳川家康は名実ともに武家の長となりました。
しかしその徳川家康に抗う勢力はいまだ存在していました。それが、かつて天下人としてその名前をとどろかせた豊臣秀吉の勢力です。豊臣秀吉自身は久能山東照宮が征夷大将軍になるよりも前の1598年に没していましたが、彼の妻である淀君(「茶々」とも。浅井三姉妹のうちの一人で、織田信長の姪にあたる)と、その淀君の間に生まれた豊臣秀頼はいまだ健在でした。
彼らは大阪の地で多くの人に支えられ、その軍力を保持していたのです。
このような状況を、徳川家康が是とするわけがありません。
徳川家康はいまだ根強い豊臣家信仰を切り崩すべく、豊臣家に付き従う武家に働きかけを行い、自らの仲間に引き入れていきます。
せっかく手に入れた征夷大将軍の地位を、あえて就任後わずか2年で自分の子どもである徳川秀忠に渡したのもまた、「征夷大将軍の地位は世襲制であって、武家の最高位も天下も、もはや豊臣家にはないこと」を誇示したといわれています。
これに加えて、徳川家康は豊臣秀吉の名前すらも利用します。「偉大な父君豊臣秀吉公を供養するために、豊臣家は各地に寺院を設立せよと命じて、豊臣家の財政を圧迫していきます。
さらに、この命令に従って寺院の復興をしていた豊臣秀吉にいわゆる「難癖」をつけることすらしています。寺院復興のさなかで、寺院の鐘に文字が彫り込まれるのですが、それが「国家安康」という文字でした、この文字は、「家康」の文字を、「家 (安) 康」と分けたものであって、縁起が悪いとして豊臣家を糾弾したのです。また、このときには「君臣豊楽子孫殷昌」という文字も彫り込まれていましたが、これも「豊臣家が豊かであるように」という願いを込めたのだとさえ言っています。
この最後の事件がきっかけとなり、ついに豊臣家は徳川家康とたもとを完全に分かつことになります。豊臣家は主をなくした武家の多くを取り入れましたが、それでも徳川家康との戦力さは圧倒的でした。もはや敗戦が見えている戦いではありましたが、豊臣家は最後の意地をかけて、大阪冬の陣~大阪夏の陣に臨むことになります。
<そして天下は徳川家康の手に>
関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いだといわれていますが、大阪冬の陣~大阪夏の陣は戦国時代の終焉を告げる最後の戦いともいえるものでした。豊臣家の兵力が10万であるのに対し、徳川家は30万の兵を持っており、完全に徳川側が有利な戦局でした。
しかし今でもその名前をとどろかせる名将・真田幸村などの活躍もあり、豊臣家は徳川家が予想もしていなかったほどの善戦を見せます。彼らの活躍もあり、大阪冬の陣では決着がつかず、徳川家は豊臣家の申し出た和議を一度は受け、豊臣家はその存続を許されることとなりました。
もっとも、「狸」として知られた徳川家が、計算なしに和議を結ぶはずなどありませんでした。徳川家は和議の後、豊臣家の城であった大阪城の堀をすべて埋めてしまい、大阪城の「城」としての機能を失わせます。さらに豊臣家に対して、大阪城を捨てること、雇い入れている武士を解雇することなどを求めます。
武家としての体裁も城も兵力も捨て去るように求められた豊臣家は、当然これを拒否します。
そしてその後、ついに大坂夏の陣の幕が切って落とされます。
この戦いで、徳川家康はまたもや危機に陥ります。大坂夏の陣でも活躍した真田幸村に追い詰められ、二度にわたって徳川家康は自害を決意しなければならない状況にまでなってしまうのです。しかし真田幸村は、徳川方の援軍によって討ち取られました。なお真田幸村の鬼神のごとき戦いぶりは、徳川方の武将島田忠恒をして、「日ノ本一の兵」とたたえられたといわれています。
勇将真田幸村を失った豊臣家は、徳川家に追い詰められ、その最中で淀君と秀頼もその命を落とすことになりました。こうして徳川家康は、最大の敵であった豊臣家を討ち滅ぼし、それから長く250年以上も続く徳川の世の礎を固めることに成功します。長く苦難の人生を歩んできた徳川家康が、ついに最高権力者となったわけです。 大阪夏の陣から1年後の1616年に、徳川家康はタイの天ぷらに中って亡くなることになります。しかしその当時ですでに74歳であったこと、後継者に恵まれたことを考えれば、彼の人生の後半は決して不幸なものでなかったと思われます。
<徳川家康、最後の地~久能山東照宮について>
波乱の人生を生き抜き、ついに並ぶ者なき存在になった徳川家康の最後の地となったのは、「久能山東照宮」です。徳川家康はここに祀られています。
どのような困難に見舞われても決してくじけることなく、常に自らを律し、目標達成のために努力をし続け、そしてそれから続く260年の太平の世の祖となった徳川家康は、この久能山東照宮の地で神として祀られることになります。
徳川家康は生前、自分の部下たちに対して、「自分が死んだらその遺体を、駿河国(現在の静岡県)の久能山に葬るように。そして、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国(現在の愛知県)の大樹寺に位牌を納めよ。一周忌が過ぎたら、下野(現在の栃木県)の日光山に勧請(かんじょう。神仏を違う土地に移して祀ることをいう)せよ」と言い伝えたとされています。死後に多くの土地にその身を祀らせることで、死後もなお、日本全国を守っていこうとしたのです。
徳川家康の遺言の通り、彼の遺骸は久能山の久能山東照宮に埋葬されました。神君・徳川家康公を祀るために作られたこの久能山東照宮は、当時の最高峰の技術をもって造られたもので、その美しさは令和の今であってさえ衰えることはありません。ちなみに「みざるいわざるきかざる」の三猿で有名な日光東照宮の原型となっているのも、この久能山東照宮です。
久能山東照宮は、それ自体が芸術品としての価値と歴史的な意味を持ちうるものですが、そこに収蔵されているものにもまた高い価値と深い意味があります。たとえば、久能山東照宮で管理されている「洋時計」と呼ばれるものは、徳川家康が人生の晩年において、当時のスペイン国王フェリペ3世から贈られた歴史的価値のある逸品です。スペインの属領であったフィリピンの総督ドン・ロドリゴが海難事故にあった際に徳川家康がこれを助け、そのお礼として贈呈されたものです。
この洋時計は徳川家康が亡くなった際に久能山東照宮に納められ、今も亡き主とともに過ごしています。
日本人ならば知らぬ人のいない人物である徳川家康の行動には、当然賛否はあります。しかしさまざまな艱難辛苦のなかにあってなお、自らの進むべき道筋をひたむきに見据え、そしてその結果として260年にも及ぶ平和な世の中を築き上げた徳川家康という人物の偉大さを疑う人はいないでしょう。 徳川家康をテーマにした2023年の大河ドラマが、今から楽しみなことですね。