〔あおき葬祭コラム〕第111回:2023開幕!NHK大河ドラマに合わせて知っておきたい徳川家康ゆかりの神社・お寺第4回「臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺」

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ

2023年開幕の大河ドラマは、徳川家康をメインに据えたものです。「天下人」として有名でありながらも、大変な苦労人でもあった徳川家康は、今なお根強いファンを持つ名武将だといえます。

彼は苦難に満ちた少年~青年期を送ることになりますが、後半にかけてからは(さまざまなトラブルやいくつもの危機に見舞われつつも)天下人としての人生を歩み始めることになります。

そして、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いを乗り越え、彼はついに征夷大将軍となります。

今回は、征夷大将軍になる直前~征夷大将軍になってから大阪冬の陣・大阪夏の陣に至るまでの徳川家康の歩みと、その徳川家康に深く関わる「臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺」について取り上げていきます。

<関ヶ原の戦いを制し、ついに征夷大将軍へ>

数多くの戦いに巻き込まれ、あるいは自らその身を投じてきた徳川家康は、1600年についに関ヶ原の戦いにいたります。後世にいたるまで天下分け目の戦いと語り継がれているこの戦は、多くの信望を集めた立身出世の代名詞豊臣秀吉の死から2年後に起きました。

豊臣秀吉は自らの死に際して、まだたったの6歳であった子ども秀頼のために、「秀頼に尽くし、豊臣家を守るように」と遺言を残します。

しかしこの遺言を裏切ったのが、ほかならぬ徳川家康でした。

豊臣秀吉の遺言には、武家同士の結びつきを強くする政略結婚も禁じると記されていましたが、徳川家康はこれを無視、有力な武家である伊達家の伊達政宗や、福島正則と婚姻関係を結びます。

豊臣秀吉の死によって、危うくはあるものの保たれてはいた均衡は崩れようとしていました。

このような徳川家康にストップをかけたのが、豊臣秀吉の子飼いの部下、石田三成でした。彼はまだ幼いころにその機知を豊臣秀吉に見いだされ、彼に取り立てられました。その後も豊臣秀吉は特に石田三成をかわいがったとされています。彼は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連絡役に命じられるなどの活躍を見せていましたが、その采配には不満の声も上がり、彼を敵視する声も少なくはありませんでした。

しかしこのような状況のなかでも、あるいはこのような状況のなかであったからか、彼は亡き主君豊臣秀吉に忠義を尽くし、その遺児豊臣秀頼を守り抜こうと決めます。

そのような石田三成にとって、徳川家康はまさに天敵でした。石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍は、関ヶ原で激突することになります。

しかし西軍は、頼みにしていた味方に次々と裏切られ、あっという間に壊滅してしまいます。天下分け目の戦いと語り継がれる関ヶ原の戦いではありますが、その期間は非常に短く、1日(資料によってはわずか6時間)で、あっという間に決着がついたといわれています。

石田三成はこの戦の結果を受けて逃走しますが、すぐにつかまり、処刑されることになりました。

ちなみに、石田三成を語るエピソードとして、「処刑前の柿」があります。これは処刑されることが決まっていた石田三成が、喉の乾きを癒すために水を求めたことから始まります。

石田三成の最後の願いは却下されるのですが、そのときに看守から「柿を食っていろ」と勧められました。しかし石田三成は、これを「喉(腹とも)に悪いからいらぬ」と断ったと言われています。

このエピソードは石田三成の、武将にはあるまじき往生際の悪さを表すエピソードともいわれていますが、「武士たるもの、最後の一瞬まで志を達するために全力を尽くすべきなのだ」という気持ちを表すエピソードともいわれています。

<征夷大将軍になった後の徳川家康について>

石田三成を処刑し、関ヶ原の戦いで完全勝利を収めた徳川家康は、1603年についに征夷大将軍にまで上り詰めます。この11年後には大阪冬の陣が、さらにその翌年には大阪夏の陣が勃発することになるのですが、今回取り上げる「臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺」はその11年間の間に登場します。

すでに述べた通り、豊臣秀吉の時代、彼は朝鮮にまで兵を進めます。「文禄・慶長の役」と呼ばれるこれは、海を越えたところにある朝鮮半島までをも手中に収めようとした豊臣秀吉の野心に端を発するものだと考えられています。

しかし豊臣秀吉の軍勢は、初めこそ快進撃を続けるものの、次第に戦を嫌う空気が蔓延し、侵攻を進めることはできなくなります。このため最終的には一時休戦というかたちを選び、朝鮮出兵は取りやめになります。

このような経緯があったため、当時の日本と朝鮮半島の仲はお世辞にも良いとはいえない状況でした。国交はほぼ断絶してしまい、友好的な雰囲気で交流できるような状態ではなかったのです。

しかし征夷大将軍に就任した徳川家康はこの状況を憂い、平和的に和平を結ぶ方法を模索し始めます。その結果、彼は467人からもなる朝鮮使節団(朝鮮通信使)を日本に受け入れることを決定します。

1607年、招かれたか彼らは徳川井家康がいる駿府城に挨拶をしにいきます。そして、滞在中の宿を求めました。

その宿こそが、「臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺」なのです。

臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺は、徳川家康が進めようとした融和政策の象徴ともいえる場所です。この臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺はその後も和平の場・日本と朝鮮が互いの文化を教え合う場所として残り続けることになります。1607年に始まったこの交流は、なんと200年以上も続き、そのなかでも臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺は長く融和・和平・友愛の象徴としてその存在を主張し続けました。

ちなみに現在も、この臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺には、朝鮮からやってきた「御客人」の記録が残されています。

<子どものころの徳川家康も、臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺と関わりが深い>

関ヶ原の戦いの後の徳川家康の歩みと、彼の施策ゆえに大きく取り上げられることになった臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺のエピソードについて話してきましたが、臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺は幼少期の徳川家康とも関わりのあるところです。

徳川家康は子どものころ、今川家の人質としての生活を送っていました。ただ人質であっても、牢屋などに一人きりで監禁されていたわけではありません。優秀な家庭教師がつき、武士の子どもとしての正しい教育を受けてきたわけです。

そしてその「優秀な家庭教師」こそ、臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺と関わりのある人物でした。

今川家は、軍師のうちの一人として、「太原雪斎禅師」と呼ばれる人物を雇っていました。彼は今川家の子どもと徳川家康に、数多くの知識を与えました。そしてこの人物は、当時は荒れ果てるに任されるままであった臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺に注目、これを再興し、美しい状態に整えた人物としてもその名前を知られています(ちなみに臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺自体は彼が作ったものではなく、7世紀後半にはすでに存在していました)。

かつての家庭教師であった人物が整備した寺院を、和平の場・友愛の場として選んだ徳川家康の心の内側は、今となってはだれも知りえません。しかし彼が重用したこの臨済宗妙心寺派巨鼇山清見興国禅寺には、現在でも彼自らが接いだ花は「臥竜梅」と呼ばれて残り、主亡き後もその美しい花を咲かせているのは事実です。