天下人・徳川家康は、天下人になる前にさまざまな苦難を味わった苦労人の武将として知られています。「人の一生は主にを負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」という彼が謳った歌は、彼の人生観そのものを表すものだといえるでしょう。
ちなみにこの歌には「不自由が当たり前だと思えば不満を感じることはない、欲が生まれたときは、つらかった時代を思い出すべきだ。我慢することは長く無事に過ごすことの基礎であり、怒りは敵と思え。勝つことばかりを知っていて負けることを知らなければ、その毒は自分の身にも至る。自分を責めることはあっても、人を責めてはいけない。足りないことは、やりすぎていることよりは良い」と続きます。
このようにして常に自らを律し、苦難に身を置きながらも戦い続けていた徳川家康は、自らの移り住んだ浜松城においても、苦境に立たされながらもその生をつなぎ続けます。
今回の記事では徳川家康と関係の深い寺社仏閣として「富士山本宮浅間大社」を取り上げますが、そこに至るまでの徳川家康の歩みについても見ていきましょう。
<浜松城に至った後の徳川家康の歩みについて>
浜松城に至り、そこを居城とした徳川家康でしたが、そこも徳川家康にとって安寧の地とはいいがたい場所でした。
ここで徳川家康は、織田信長と連盟を組むことになり、「甲斐の虎」として知られた武田信玄と激突します。先見の明があったとされる名将武田信玄は、上洛を目指して二俣城を落とします。さらにその武田信玄配下で、猛将として知られていた山県昌景も同時期に三河から攻めこみました。彼らの猛攻に、徳川家康傘下の城はまたたく間に陥落、徳川家康は窮地に立たされます。
ただ、武田信玄の目的は、徳川家康の守る浜松城ではありませんでした。武田信玄の目的は、浜名湖に突き出るかたちで存在していた半島にある「堀江城」でした。そのため、武田信玄は徳川家康の居城浜松城を捨ておき、その堀江城に軍を進めようとします。
しかし徳川家康は、「このまま領地を通らせるのは武士の名折れ」と声を上げ、家臣の反対に耳を貸すことなく、武田信玄と刃を交えるために浜松城から打って出ます。
しかしこの徳川家康の行動や戦略は、武田信玄にはまったく通用しませんでした。そもそも武田信玄の方が多くの兵を引き連れていましたし、武田信玄は戦略家としても名高く戦上手としても知られている人物です。徳川家康の軍は武田信玄の軍とあたり総崩れ、多くの大切な部下をも失います。
徳川家康は何度も何度も命の危機にさらされ、脱糞しながらも逃走し、なんとか浜松城に帰り着いたとされています(※脱糞に関しては後世の創作ではないかとする説もあります)。
この危機は、さまざまな艱難辛苦を味わった徳川家康の人生のなかでも特に危険なものであったと伝えられています。
しかし時は徳川家康に味方します。あれほどの武勇と知略を併せ持った武田信玄が、三方ヶ原の戦いの後、4か月と待たずに持病の悪化により死亡することになるのです。彼の死は甲斐にとってはこの上もない悲劇ではありましたが、徳川家康にとっては非常に幸運なことでした。
またこの戦いは、周囲の徳川家康に対する評価を大きく変えたといわれています。たしかに彼は敗走こそしたものの、「自らの命と魂にかけて領地を守った武士の鑑」として周りから高く評価されたのです。このときの戦いは、たしかにかたちこそ「負け」ではあったものの、徳川家康が「この地方一番の武士」に成り上がるまでの階段であったともいえます。
<妻と子どもとの別れ、そして関ヶ原の戦いへ>
その後彼は、長篠の戦を経て、二俣乗を取り返します。しかし徳川家康が37歳のとき、彼は22年もの長きに渡って連れ添った妻築山殿と、その間に生まれた20歳の長男信康を殺めることになります。築山殿は敵(武田家)と内通していたために自害を迫られたのにそれを拒んだため殺害、信康もまた父により切腹に追い込まれたとされていますが、「本当に築山殿は敵と通じていたのか」などについては議論が分かれるところです。ただいずれにせよ、今の倫理観・価値観とはまったく異なる戦国時代の理念・思想というものを感じさせる出来事ではあります。
戦国の風雲児織田信長が死亡したのは、1534年のことです。だれもが知る「本能寺の変」で、彼は配下であった明智光秀によりその命を奪われました。そこで舞われた「人生五十年・・・」の句はあまりにも有名です。またこのようにして主君を討った明智光秀もまた、落ち武者狩りによってその命を絶たれるという無残な死を遂げることとなりました。
このときが人生の激動期であったのは、織田信長と明智光秀だけではありません。織田川に着いていた徳川家康もまた、窮地に陥りました。最初こそ織田信長の後を追おうとした徳川家康ですが、部下に説得されて当時の本領であった愛知県へ帰還することを目指します。
しかしその道中は、落ち武者狩りも跋扈(ばっこ)する危険な土地です。その家康を守りぬき無事に送り届けたのが、服部半蔵らの忍者でした。ちなみに服部半蔵は、先で挙げた三方ヶ原の戦いでも活躍しています。
<「富士山本宮浅間大社」ついて>
このように紆余曲折・波乱万丈の人生を歩んだ徳川家康ですが、天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いに勝利後、彼は天下人としての歩みを進めることになります。
そしてそんな「関ヶ原の戦いの勝利者」である徳川家康と深く関わることになるのが、「富士山本宮浅間大社」です。
富士山本宮浅間大社は、関ヶ原の戦いに勝利をした4年後に造営した非常に荘厳で美しい神社です。30にも及ぶ棟を持った、赤色が美しい神社です。
もともと富士山本宮浅間大社は、徳川家康よりもずっとずっと昔の天皇の時代に建てられたものだと考えられています。富士山の大噴火を鎮めるために建てたのが起源とされているのですが、徳川家康はこの神社を「戦勝をもたらしてくれた神社である」ととらえ、これを重んじました。そして造営に際しては、富士山頂の土地を富士山本宮浅間大社のものとするとしたのです。また、得られた賽銭も、この富士山本宮浅間大社の修復に使うとしました。
何度か「富士山頂の土地はいったいだれのものか?」という論が起きましたが、江戸幕府は「この土地の所有権は富士山本宮浅間大社にあり続ける」と判断しました。この決定には天下人である徳川家康の考えが大きく影響を与えているとされています。このエピソードからも、いかに徳川家康がこの富士山本宮浅間大社を重んじたのかがわかるでしょう。
ちなみに徳川家康の好敵手となった武田信玄(や武田頼勝)もまた、この富士山本宮浅間大社の修繕に寄与したといわれています。
徳川家康が造営した富士山本宮浅間大社の本殿・拝殿・幣殿・楼門は、今もなお現存しています。また、平民でありながらも天下人の一人としてその名前をとどろかせた豊臣秀吉もまた、この富士山本宮浅間大社に寄進をしています。
徳川家康は富士山本宮浅間大社造営の12年後に76歳で逝去していますが、彼の残した富士山本宮浅間大社は今なお燦然と残り続けているのです。そして武家に愛された富士山本宮浅間大社では、今も「流鏑馬(やぶさめ)の奉納が行われています。