〔あおき葬祭コラム〕第109回:2023年NHK大河ドラマに合わせて知っておきたい徳川家康ゆかりの神社・お寺 第1回「静岡浅間神社」

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基本的に1年間を通して放送されるNHKの大河ドラマは、多くの人を引き付け、魅了する番組です。2022年も終わりの足音が響くようになってきた11月からは、来年の大河ドラマ「どうする家康」に出てくる主人公家康に焦点を当てて、彼と関わりの深い神社やお寺を紹介していくこととします。

<苦労人、徳川家康と静岡浅間神社の関わり~静岡浅間神社に至るまでの人生>

「徳川家康」という名前を知らない人は、だれもいないことでしょう。徳川家康は戦国時代を平定した武将であり、またそれから260年続く徳川幕府の始祖ともなった人物でもあります。戦国時代の三傑の一人(ほかの二人は、織田信長と豊臣秀吉)に数えられる人物であり、後世にもその名前を残した歴史上の偉人でもあります。

ただこの徳川家康の人生は、決して平たんなものではありませんでした。今回は徳川家康と深く関わることになる「静岡浅間神社」について取り上げていきますから、まずは「静岡浅間神社」に至るまでの徳川家康の歩みについて解説していきます。

徳川家康が生まれたのは、1542年のことです。この時代の人物にしては珍しく、生まれた日時もはっきりとわかっており、年の瀬の12月26日の午前4時ごろに生を受けたとされています。三河(現在の愛知県)で、岡崎城主の松平弘忠と、その妻伝通院の間の子どもとして誕生しました。ちなみに幼名は「竹千代」といいます。

彼の人生は、初めから波乱に満ちていました。彼が6歳の頃、岡崎城は織田信秀の攻撃を受けることになります。危うしとみた父松平弘忠は、今川義元に援軍を求めました。今川義元は援軍を送ることを了承しましたが、その引き換えとして、人質となる竹千代を要求します。

松平弘忠は幼かった竹千代を今川義元の元に送るべく、護送役の戸田宗光をつけて送り出しました。しかしこの戸田宗光は、その命を裏切り、よりによって敵方であった織田信秀に竹千代を売り飛ばしました。なおそのときの金額は、千貫文(現在の貨幣価値でいう1億2000万円)だったとも、百貫文(現在の貨幣価値にすると1200万円)だったともいわれています。

このようにして竹千代をその手に収めた織田信秀は、「わが子の命が惜しければ、要求に応じよ」と松平弘忠にいいます。しかし松平弘忠は、国と信義を守るためにこれを拒否します。その様子に織田信秀は感銘を受けて、竹千代を殺すことなく、織田家の菩提寺に彼をとどめおくことにしました。

しかしその後、織田信秀は今川義元に攻められ敗北、父である松平忠弘も失った竹千代は、今川の元にとらえられた織田信秀の息子と交換されるかたちで今川家に人質として入ります。

徳川家康が今川義元の元から解放されて人質の身分から解放されるのは、彼が19歳になってからです。つまり、徳川家康は、武家の子としての元服を、今川義元の元で迎えることになります。そしてその元服に深く関わっているのが、「静岡浅間神社」なのです。

<徳川家康元服の土地、そして徳川家康の手によって焼かれた神社「静岡浅間神社」>

「静岡浅間神社」は、その名前の通り、現在の静岡県にある神社です。静岡県の葵区に現在も残る神社であり、多くの人が足を運んでいる場所でもあります。

徳川家康は、この静岡浅間神社で元服を迎えることになりました。すでに述べた通り、徳川家康が元服を迎えた15歳(14歳とも)ときは彼の身元はいまだ今川義元の元にありましたから、彼の烏帽子親(元服を迎えた者に冠をかぶせる役目を負う者のことを言う。また、元服を機に幼名が廃止されるが、幼名廃止後の名前を名付ける役目を担うこともある)も今川義元が務めることになりました。ちなみにこの年に、徳川家康は今川義元の名である「瀬名」と結婚しています。また元服の1年後に徳川家康は初めて里帰りが許され、幼き日に失った父の墓前に参じることができました。

徳川家康にとって、成人の儀式を行った静岡浅間神社は非常に大切なものであったと思われます。静岡浅間神社は昔から多くの人の信心を集めており、信仰の対象として人々の心の支えとなっていました。

しかし徳川家康と静岡浅間神社の関係は、数奇な運命をたどることになります。なぜなら徳川家康は、この静岡浅間神社で元服の儀式を行ってからさらに24年後の39歳のときに、自らこの静岡浅間神社を焼き払わなければならなくなるからです。

1581年、39歳になった徳川家康は、数多くの戦を勝ち抜いてきた名将となっていました。しかし彼には、いまだ倒すべき相手が残っていました。それが「甲斐の虎」とも言われた武田信玄の流れを汲む武田家です。徳川家康と武田家の因縁は深く、1569年には20年以上も連れ添った瀬名とその間に生まれた子どもを「武田家との内通の疑いあり」として殺しているほどです。

この武田家の攻略にあたって、ネックとなっているのが、徳川家康が元服を迎えた神社であった静岡浅間神社でした。静岡浅間神社は武田氏の拠点のうちのひとつである賤機山城の前にあり、この城を落とすためには静岡浅間神社が邪魔になっていたのです。

そのため、徳川家康は「武田氏を制し、平時になったのであれば必ずこの静岡浅間神社を復興させる」と神仏に誓い、自らが戦の勝利者となるようにと祈願をした後に、静岡浅間神社を焼き払うことにしました。

静岡浅間神社という守りを失った賤機山城は徳川勢の攻勢により打ち滅ぼされることになります。

それからわずか1年後、戦国最強とも言われた武田勢は、徳川家と織田家の連合軍によって滅亡、その姿を消すこととなります(※ただし、武田家の子孫が生きながらえているとする説を取る人もいます)。

静岡浅間神社が焼かれてから3年後には、歴史に残る小牧・長久手の戦いが開戦、さらに1590年には徳川家康が江戸城に入城することになります。この1584年から1590年までの激動の時代のなかでも、徳川家康は決して静岡浅間神社のことを忘れませんでした。1586年、徳川家康が44歳の時に、彼は静岡浅間神社の誓い通りに静岡浅間神社を再建します。東海各国で仏教の普及を行うとともに静岡浅間神社の再建のための寄付を募り、見事に誓いを果たしたのです。

このようにしてよみがえった静岡浅間神社は、その後も徳川家の厚い庇護を受け続けることになります。徳川家康自身はもとより、歴代の将軍もまたこの静岡浅間神社を祈願所として定めたとされています。

その後も何度か火災に襲われていますが、その度に再建されました。なお、現在残る静岡浅間神社は、今から220年ほど前に建てられたものです。

静岡浅間神社の歩みもまた、徳川家康同様、決して平たんなものではありませんでした。戦国時代の英雄のうちの1人である徳川家康の成人の場として使われた後には、その徳川家康の手により焼失、そしてさらに彼の手によって復興、その後も長く徳川家の祈願所であり続けたにも関わらず何度も火災に見舞われた……とまとめてみると、その歴史がいかに波乱に満ちたものであるかがわかります。

しかしそのような激動の歴史のなかでも、静岡浅間神社が多くの人の信心を集めてきた神社であり、今もなお多くの人に慕われている場所であるということには何も変わりがありません。