〔あおき葬祭コラム〕第100回:仏教の重要人物空海、その生涯(5)

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4回にわたって空海の生涯を追ってきた本コラムですが、今回はその連載の最後として、「高野山にいたった後の空海の足取り」について解説していきます。

<偉大な僧侶はマルチな才能と知識を持つ人物でもあった>

高野山にいたった空海が非常に多くの人間から敬愛される僧侶であったことは間違いのない事実ですが、同時に彼は、偉大な建築家であり、温泉を広めた人物であり、名の知られた著作家でもあり、不世出の教育家であり、語り継がれることになる書道家でもありました。

1.建築家として

空海の功績を語るもののひとつとして、「満濃池」があります。

満濃池は700年ごろに作られた、農業に使うためのため池でした。しかしそれが818年に洪水に見舞われ、決壊することになりました。その2年後には朝廷はこの満濃池の修繕を手掛けるようになりますが、満濃池はそもそも非常に規模が大きかったことから、なかなか修繕がうまくいかなくなりました。

その際に、白羽の矢が立てられたのが空海です。

空海は仏教の知識を唐から持ち帰りましたが、持ち帰ったものは仏教の知識だけにとどまりません。当時最先端であった大陸の建築法なども持ち帰りました。

その知識を生かし、空海は満濃池の修繕にあたることになります。「水圧がかかる場所にはアーチ型の堤防を作るように」などのように指導して、より強く、より決壊しにくい堤防づくりを指揮したのです。

この空海の指示は非常に的確であり、また当時の日本においては非常に革新的なものでした。空海が作り上げたこの満濃池は、現在にいたってもまだ利用されているほどです。

2.温泉を広めた人物でもある

また、こんにち多くの人に愛されている「温泉」にも空海は深く関わっています。空海は温泉の効用を知った人物であり、その有用性を広めた人物でもありました。

なお、「伊豆の踊子」で知られている伊豆には、「修善寺温泉」と呼ばれる温泉がありますが、ここにも空海の伝承が残されています。

空海は807年にこの地を訪れましたが、その際に、川の水で父親のことを洗う孝行息子に出会いました。病を得た父親を優しくいたわるこの息子に感銘を受けた彼は、「このような冷たい水で洗うのはつらかろう」として、持っていた独鈷杵で川の中にある石を砕きます。そうするとたちまちあたたかなお湯が噴き出したということです。その後空海は少年に温泉の効用を説き、それに従った父親は完治したと言い伝えられています。現在でも広く知られた「湯治」はここから端を発しているといわれています。

なお、現在でも「独鈷の湯」として知られているこの場所ですが、現在では入浴はできないようになっています。足湯として使うこともできません。ただし、見学をすることは可能です。

3.優れた著作家としての活動

著作物についても見ていきましょう。

彼は、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」と呼ばれる書物を編集しています。これは真言宗の教説を判定・解釈・体系化したものであり、時の帝に命じられて作ったものでもあります。

さらに、「秘蔵宝鑰(ひぞうほんやく)」と呼ばれる書も著しています。先に紹介した「十住心論」が広く論を展開しているのに対して、秘蔵宝鑰はわかりやすく簡単に記されているのが特徴です。

十住心論と秘蔵宝鑰は、数多くの書を著した空海の著作家としての人生のなかでも、もっとも重要な意味を持つものとして知られています。

ちなみに、日本に現存する最古の辞書として知られる「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」もまた、空海によって作られたとされます。ただし空海が編集したのは途中の4帖までで、それ以降はほかの人によって作られたともされています。なお篆隷万象名義の写本は、現在国宝に指定されています。

またこれ以外にも、日本で初めてとなる文章学の書物なども作り出していますし、詩の分野においても名作と呼ばれるものを数多く記しています。

4.教育家としての顔

日本に住むすべての人は、貧富の別なく、必ず教育を受けています。しかしかつての日本ではそうではありませんでした。学ぶことのできる人は限られており、庶民が学びの機会を得られることはまれでした。

空海はこのような人々に対しても学問の門戸を広く開こうとして、「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を作ります。これは、日本で初めてとなる庶民のための教育機関であり、多くの人が平等に学問に親しめるようにしたのです。

5.歴史に残る書道家として

日本には、「三筆」と呼ばれる人々がいます。書において特段の功績を残した人のことを指す言葉で、このなかに空海も含まれています(ちなみにほかの2人は、嵯峨天皇と橘逸勢です)。

「弘法、筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」などのようなことわざでも知られる通り、空海は書において特段の才を見せた人物でありました。

彼の書跡は非常に多才で、どのような書体でも美しく描くことができ、書自体に対する造形も非常に深かったといわれています。

<空海に訪れる、最期のとき>

このようにマルチな才能を見せた空海ではありましたが、その生命の灯にはやがて陰りが見えるようになりました。

空海は、57歳ごろの病を得ます。この病気をきっかけに空海は大僧都の職を辞そうとしますが天皇から引き止められたことからいったんこれを保留、翌年に高野山で静かに暮らすことを選びます。ただそこでも彼は仏教の存続と前進のために力を尽くしたといわれています。

空海が真言宗で最高の儀式と言われる「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」を行ったのは、彼が61歳になったころです。なおこの後七日御修法は、現在でも毎年1月の8日から14日までの間、東寺で執り行われています。

非常に有名で数多くのエピソードを持つ空海は、まるで自分の死期を予期していたかのように、自分の命が消えるまでの短い間、一心に仏教の普及と発展に打ち込みます。

そしてついに、835年の3月、彼は高野山にて最後を迎えます。空海、60歳のときでした。このときまでに彼は、すべての教えを弟子に伝え、遺言も残したとされています。現在の感覚からすれば60歳という年齢はあまりにも早すぎる死のように思われますが、自らの使命を果たし、自らのなすべきことをすべてなしとげた後の旅立ちだったといえるでしょう。

偉大なる僧侶の入定は多くの人に衝撃を与えたものと推測されますが、彼の活動は世に高く評価されました。なお、空海が旅立ってから86年後の921年には、時の天皇(醍醐天皇)から、「弘法大使」という諡が授けられています。上記で紹介した「弘法、筆を選ばず」などにもとりあげられている「弘法」という名前は、ここから始まっているのですね。

空海は、日本の仏教を語るうえで欠かすことのできない人物です。強い克己心、知への追及審、卓抜した頭脳と技術、そして高潔な人柄で、彼は日本仏教をけん引する存在となりました。また、日本における仏教を体系化し、庶民にも学べる環境を用意するなどの働きも果たした人物でもあります。

彼が入定してから1400年近くが経とうとずる現在であっても、その功績には陰りはなく、その功績が歴史のなかに埋もれることもありません。今でも誰もが知る高名な僧侶としてその名前は引き継がれているのです。そしてこのような状況は、今後も何年・何十年・何百年と続いていくものと思われます。