〔あおき葬祭コラム〕第80回:「祈り」と「願い」、その違いについて

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム

宗教や死生観について考えていくと、「祈り」「願い」という単語に行き当たることがあるかと思われます。

そしてその意味を考えることで、さらに思いを深くすることもあるでしょう。

ここでは、「祈り」と「願い」の国語的な意味の違いと、またそこにもつながる「宗教における『祈り』と『願い』」について解説していきます。

<国語的な意味でみる「祈り」と「願い」の違い>

まずは、日本語的な意味での「祈り」と「願い」の違いについて解説していきましょう。

国語辞典では、「祈り」を祈ること。―引用:角川書店「角川最新国語辞典」山田俊雄・石綿敏雄p66”としたうえで、「祈る」を“①神仏に願う。②心から望む。希望する。―引用:角川書店「角川最新国語辞典」山田俊雄・石綿敏雄p66”としています。

そして「願い」に関しては、“①願うこと(内容)。希望。「-がかなう」②たのみ。依頼。「むりな―を聞き入れる」③願う内容を書いた書類。願書「入学―」―引用:角川書店「角川最新国語辞典」山田俊雄・石綿敏雄p803”としたうえで、「願い事」を“願い望む事がら特に、神仏に祈願する事がら。―引用:角川書店「角川最新国語辞典」山田俊雄・石綿敏雄p803”としています。

この2つを見比べてみると、「祈り(祈る)」には神仏に「願う」ことであると書かれていて、「願い事」には「神仏に『祈願』する事がら」と書かれていることがわかります。

このため、国語的な意味で言うのであれば、この2つは極めて分かちがたく、ほぼ同義の意味で使われていると考えても差し支えないでしょう。

また、「祈願」に関しては、“神仏にいのり願うこと。祈念。―引用:角川書店「角川最新国語辞典」山田俊雄・石綿敏雄p223”と解説されています。このことをすべて合わせると、辞書的には「祈り」=「願い」=「祈願」と解釈されるでしょう。またこれは紙の辞書から引きましたが、インターネットで調べても同じように書かれています。

これだけをみれば、「祈り」と「願い」の間には明確な違いがないように思われます。しかし私たちは、時にこの「祈り」と「願い」を使い分けて語ることがあります。それではこのように使い分けるときは、いったい何が基準となっているのでしょうか。

それについて解説していきます。

<「祈り」と「願い」を明確に分けるものはないけれど……>

上記でも述べたように、「祈り」と「願い」は明確に分けられるものではありません。そのためこの2つを分けて語ろうとするとき、そこには必ず個々人の解釈が入ってきます。

それを踏まえたうえで解説していきます。

「祈り」と「願い」の違いとして、「『祈り』は全人類的なものであるのに対し、『願い』は個人の望みを叶えるために行うものである」 と解釈する人もいます。この解釈が、もっともよく知られた「祈り」と「願い」の違いなのかもしれません。

またこの説を取る場合、「祈りは自分よりもはるかに大きなもの、たとえば神や仏に対して捧げられるものである。対して「願い」の場合は個人の望みに過ぎないのだから、そこには人知を超えた者の存在は示唆しない」と考えるケースが多く見られます。

また、「感謝を表す言葉として祈りがある。祈りは、『個人の望みの成就』を目的としない。それに対して『願い』は個人の望みを叶えてくれと神仏に願うものなので、欲を引き出すものに過ぎない」ととらえる人もいます。

「だれかに具体的に助けを求めることが『願い』であるのなら、困難に陥ったときに思わず唱えてしまう念仏のようなものが『祈り』である」と解釈する人もいます。 このように、「祈り」と「願い」については、「『なにかしらの区別がある』と考えている人は大勢いて、それぞれにそれぞれの価値基準を持っている。しかしその価値基準は人それぞれ異なるため、明確でただ一つの『回答』はない」ということになるでしょう。

<宗教においてさえ、この2つをどうとらえるかは宗教者によって異なる>

では、宗教の観点からみていけば、この「祈り」と「願い」の区別が明確につくようになるのでしょうか。

しかし実は、同じ宗教内であったとしても、「祈り」と「願い」をどうとらえるかは個々人によって異なります。

【キリスト教】

キリスト教では、「旧約聖書においては、祈りは『神様と人をつなぐための仲介手段』であった」と解釈する人がいます。そして彼らは、「願いとは、『自分個人の願望』を指す」とも考えます。このため、「祈りによって人の『願い』がかなえられるようにと考えることもできるし、同時に祈りによって自分の『願い』を成就することもできる」とみる人もいるのです。

ただほかの人は、「信仰を抱き続け、その信仰を表す祈りのなかで、知識や行動の指針などを示してもらうために願い求めることが重要である」としています。祈りがあって、その祈りの内側で「願う」という行動をすると解釈しているのです。

また、もう少しわかりやすく、「キリスト教を信仰するものにとっては、『祈ること』は最重要である。祈りは神への礼賛にもつながるものであって、自分の信仰を表すためのものである。祈る内容として、『個人の願いの成就』は適さない」としている人もいます。

なおキリスト教には、「悔い改めて祈りを続けさえすれば罪は許され、天国の門が広がる」とする考え方があります。

【仏教】

「願掛け」という言葉は、日本においては非常になじみ深いものです。神道では願掛けに関する催し物をしていたり仏教では「お遍路参り」ということで願を掛けたりすることもあります。

願掛けとは、何かの成就を願ったり、災害や病気から守っていただけるようにと願ったりすることをいいます。そしてその「願い」をなしえるものが、「祈り」であるととらえます。

キリスト教ではしばしば「個人の願い」が否定されますが、仏教の僧侶のなかには、「仏様に感謝する言葉として『祈り』がある。『救ってほしい』と念じることが『願い』ではあるが、神仏はその一つひとつを拾い上げる」と解釈する人もいます。なおこの解釈では、「だれかの失脚を願ったり、だれかを故意に傷つけたりする願い事をした場合、その願いは願った者に返ってくるかたちで成就してしまうと考えます。

【神道】

「神道における神様は、『願い』を叶える存在ではない。そのため、崇拝としての『祈り』は行うが、『願い事』はしない」と解釈している人が非常に多いのが、この「神道」です。

ただ、「祈る」は「願い」を叶えるためのものであり、しかしその「願い」が清らかなものでないとどれだけ祈っても成就することはない、と考える人もいます。この考えに基づくのであれば、「清らかで正道を行く願い事ならば願ってもよく、またそれは成就する」と解釈することになります。

また、「日本には八百万の神々が存在するという考え方がある。この考え方は神道の祖ともなるものだが、自然崇拝・アミニズム(霊魂主義。あらゆるものに魂が宿っているとする考え方)に基づけばすべての事物は祈りの対象となりうる」としている人もいます。

ここでは「キリスト教」「仏教」「神道」を取り上げてきましたが、「祈る」「願う」という行動は普遍的なものであるため、ほかの宗教(イスラム教など)にもみられます。

「祈り」「願い」の区別をどこに定めるかは人それぞれ異なりますが、多くの人が祈り願ってきたという事実はかわりません。

そのような歴史をたどり、異なる意見をみることで、貴方自身の「祈りと願いの違い」が見えてくることでしょう。