〔あおき葬祭コラム〕第79回:お墓の成り立ちと歴史について知りたい

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム

私たちの最後の居場所である「お墓」は、実は時代とともに移り変わっていっているものです。

今回はこの「お墓の歴史」に注目し、その成り立ちと現在の状況について解説していきます。

<最古のお墓、それは78000年前にまでさかのぼれる>

2022年の段階で分かっている「人類にとって最古のお墓」はアフリカにあるとされています。

これは実に78000年も前のもので、長い長い歴史を持っています。

お墓に埋葬されていたのは2~3歳くらいの子どもで、埋葬用に掘られた穴に置かれ、さらにその上から土をかぶせられていました。この子どもは、枕のようなものを頭の下に敷いていた痕跡があるとされていますが、その「枕のようなもの」は長い時間のなかで分解されてしまっています。

なお日本でも、旧石器時代のものとみられるお墓があります。これは北海道の知内町にあるもので、1991年には国の重要文化財に指定されています。

「人間は、太古より『お墓』という概念を持っていた」「お墓に花などを供えていた」ともいわれています。

「死ぬこと」自体は自然の現象であり、今も昔も変わることのないものです。人類は死を克服したことはなく、だれもがやがて大切な人との別れを迎えます。その「別れ」に対して、人類は昔から「弔う」というかたちで向き合ってきたことが、このような歴史を伝える痕跡から知ることができます。

<日本におけるお墓の変化>

「最古のお墓」について見てきたところで、ここからは「日本におけるお墓の変化」について解説していきましょう。

歴史の授業で必ず習うことになる「古墳時代」は、文字通り、「お墓の時代」です。3世紀~4世紀のこの時代に、数多くの大規模なお墓が造られました。特に仁徳天皇のお墓は非常に有名です。非常に大きなもので、その全長は485メートルを超えるといわれています。なお、このお墓は、歴史のテストでも必ず出てくる「前方後円墳」の形をしています。ちなみに彼のお墓は、世界的にみても非常に有名なものであり、クフ王のピラミッドや秦の始皇帝のお墓とともに「世界三大墳墓(せかいさんだいふんぼ)」と呼ばれています。

なお古墳といえば仁徳天皇、と連想されがちですが、5世紀ごろには「応神天皇陵古墳」が造られています。これも非常に大きいものであり、斜面には石が置かれている大がかりなものです。

もっともこの時代にこのような大がかりなお墓を持てたのは、一部の特権階級のみでした。一般庶民がこのようなお墓を持てるはずはもちろんなく、基本的には「堀った穴に、亡くなった人の足を折り曲げてかがませて入れて、土をかぶせる」という方法がとられていました。「埋葬」という概念がすでにあったことは述べた通りですが、それでも、この時代の庶民の埋葬方法は極めてシンプルなものであったといえるでしょう。

646年には大きなお墓を作ることを禁じる法律ができましたが、これに拍車をかけたのが平安時代に広がった「仏教」でした。

かつては日本でも土葬が当たり前でしたが、仏教の影響もあり、特権階級のなかでは「火葬」という文化が広まっていきました。日本で初めて火葬のかたちで弔われたのは持統天皇なのですが、彼女の影響を受けて、多くの貴族が火葬という選択肢を選ぶようになりました。

ちなみに平安時代の庶民の埋葬方法は、主に「土葬」あるいは「風葬」というかたちがとられていたとされています。「土葬」も現在のように個別のお墓を持つものではなく、「ここに埋葬をするように」として決められた山などに埋めるのが一般的でした。また、「風葬」とは野ざらしにした状態にしておくもので、時間の経過に任せて風化させていくやり方をいいます。

鎌倉時代になると、火葬の文化がより広く広まっていくことになります。

この時代も土葬と火葬の両方が使われてきましたが、より形式だった「葬儀」の文化もみられるようになりました。

また現在の「墓地」のルーツともいえる墓地ができあがっていきます。寺院の土地に墓地が造られるようになり、多くの人がそこに弔われるようになりました。今よりもずっと宗教への帰属意識が強かった時代においては、「死後は寺院の側で供養していってもらいたい」という価値観を持つ人も多かったと思われます。

このような「寺院にしつらえられた墓地」は、それ500年~1000年ほどが経とうとする今もその概念が受け継がれています。

江戸時代に入ると、庶民もまたお墓を求めるようになります。

これには、江戸時代に敷かれた「檀家制度」が大きく影響しています。この時代は信仰の自由はなく、仏教を信じることが求められていました。「寺院とのつながりを示す檀家制度」と、「寺院にある墓地に埋葬されること」は非常に相性が良かったこともあり、庶民にも「お墓を持つ」という選択肢が出てきたと考えられます。

近代である明治~対象の時代は、「自分で葬儀を行うことを禁ずる」という法律ができまいた。このため、葬儀は僧侶などが取り仕切るものとなりました。なお、2年という非常に短い期間において「火葬を禁ずる」という命令が下されましたが、亡くなる人を埋めるだけの土地が確保しにくくなっていったこともあり、この命令はすぐに撤廃されます。そしてその後、今日に至るまで生き続けている「火葬の義務化」が始められます。

<現在は「樹木葬」が非常に人気を博している>

長い歴史を持つ「お墓」ですが、その姿は現代に入ってからも常に変化していっています。

「〇〇家先祖代代之墓」などのように刻印された墓石がしつらえられている「一般墓」は、かつて多くの人が選ぶものでした。今でも「お墓」といえばこれをイメージする人も多いことでしょう。

しかし現在はこの一般墓を選ばない人も増えています。

全国石製品協同組合のとった統計では、6年より前の段階で埋葬場所を購入した人のうち、一般墓を選んだ人の割合は79.7であったとのことです。そして「永代供養墓」が16.0パーセント、納骨堂が3.6パーセント、樹木葬が0.7パーセントでした。

しかし5年以内に埋葬場所を購入した人にとったアンケートでは、一般墓を選んだ人は50.0パーセント、永代供養墓を選んだ人は30.0パーセント、納骨堂を選んだ人は12.5パーセント、樹木葬を選んだ人は7.5パーセントとなっています。

出典:FNNプライムオンライン(全国石製品協同組合)「お墓購入についてのアンケート調査を実施」

https://www.fnn.jp/articles/-/272981

また別のデータでは、「樹木葬がすでに一番人気になっている」とされています。

どのデータを参考にするかによって数字は変わってきますが、令和の時代においては、「一般墓以外の選択肢」もよくとられるようになったといえるでしょう。

樹木葬や永代供養墓などは、残していく人に負担をかけない埋葬方法です。また、祭詞継承者がいない人であっても安心して利用できるというメリットもあります。

一般墓の場合も、「自分好みの墓石を作ってもらう」「生前にお墓を購入し、自分だけで

過ごすお墓にする」などの選択肢を取れるようになってきました。

また統計結果には上がってきませんが、「海洋葬」というかたちで海に散骨してもらう方法を選ぶ人も出てきています。残されたご家族が希望すれば、手元供養やご遺骨アクセサリーを作ることもできます。

「お墓」は、長い歴史のなかで少しずつ変わっていっているものです。そして、今後も変わっていくことでしょう。しかしどのようなかたちに変わろうとも、「大切な人が安らかに眠れるように」と願いを込めて造られるものであるということは、これから先も変わることはありません。

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