お正月の前の楽しみといえば、やはり「クリスマス」なのではないでしょうか。
外国で生まれたこの「クリスマス」という概念は、日本にも入ってきて根付いていくことになります。
ここでは、あまり知られていない「日本におけるクリスマスの歴史」について解説していきます。
<日本におけるクリスマスの起源は、1552年までさかのぼる>
「クリスマスはイエス・キリストの誕生日」とされることがよくありますが、実はこれはそれほど正確な定義づけではありません。実際は「イエス・キリストの誕生日当日」を記念する日ではなく、「イエス・キリストが産まれたことを記念する日」だからです。聖書ではイエス・キリストの産まれたときの描写はしっかりされていますが、「12月24日(あるいは12月25日)が誕生日であった」とした記述はないのです。
ちなみにクリスマスの由来は、もともとは「ユール」にあるとされています。これは冬至祭りのうちのひとつであり、ゲルマン人によって行われていました(ちなみに北欧では、今もこの呼び方を使っています)。
海外で生まれたこの「クリスマス」が日本に入ってきたのは、1550年ごろのことだと思われます。1552年には、山口県で宣教師たちによるミサが行われました。これが現存する記録のなかで最古となる「日本でクリスマスが行われた日」だと考えられています。このときには、日本人のキリスト教徒を招いて、降誕祭が行われたとされています。
ただしこのようにして誕生した「日本でのクリスマス」は、このタイミングでは日本に根付くところまではいきませんでした。江戸時代、徳川家康によって1612年に「禁教令」が発令されたからです。これによってキリスト教への信仰が禁じられたのをきっかけに、クリスマスの文化もまた死に絶えようとしていました。
この禁教令が解かれ、「信教の自由を保障する」という通知が口達(口で伝えること)されたのは1875年、明文化されて公に認められたのは1889年と、実に250年以上も経ってからのことでした。それでもなお依然として制約は残り続けましたが、1899年になってようやくキリスト教の布教が認められるようになります。
またこの後、日本では1926年に大正天皇が崩御、この日が休日として定められます。さらにここに1950年代に起きた「ベビーブーム」が拍車をかけ、クリスマスが一気に根付いていくことになります。
<意外?! 正岡子規とクリスマスの関係とは>
日本のなかにあって、「キリスト教のお祭りであるクリスマスの文化」を真っ先に生活のなかに取り入れたのは、正岡子規だといわれています。正岡子規は1867年に産まれて1902年に没しています。34年の短い人生のなかで、クリスマスを生活に取り入れ、それに親しんでいたというのは、なかなか興味深い話です。
ちなみに彼は、“「臘八のあとにかしましくりすます」「八人の子どもむつましクリスマス」「贈り物の数を尽くしてクリスマス」”―引用:JCAST「クリスマスを日本に広げた正岡子規…いち早く季語に取り入れ、年の瀬に一句https://www.j-cast.com/tv/2014/12/25224122.html” のクリスマスに関する3つの句を残しています。なお第1句めは1892年に、第2句めは1896年に、そして第3句めは1899年のものです。
1句ずつ解説していきましょう。
第1句めには、「臘八」という単語が出てきます。これは仏教の行事であり、「ろうはち」「ろうはつ」と読みます。12月8日に行われるもので、釈迦(ゴーダマ・シッダールタ。ブッダとも)が菩提樹の下で悟りを開いた日のことをいいます。12月1日~12月8日までの間、お寺では昼夜問わずに座禅を行い、修行をします。そして寺院の統率者が成道(悟りを開いたこと)を祝うという儀式を行います。非常に厳かな仏教儀式であるこの臘八の後に、かしましくにぎやかなクリスマスが来ると謳った句で、この当時は正岡子規は少しクリスマスの喧騒が苦手だったのではないかと読む人もいます。
第2句めは「8人の子どもが睦まじくクリスマスを楽しんでいること」が分かる句です。
正岡子規は日清戦争に従軍~1895年の帰路において喀血、その後はほぼ病床の住人となります。この句が読まれたのは1896年で、すでに病床にありました。しかしその病床から見る「クリスマスを楽しんでいる子どもの姿」は、1892年のときとはまったく違った好ましいものとして映ったのでしょう。
ちなみにこのときに、初めてカタカナで「クリスマス」と記しています。
第3句めについてもみていきましょう。
正岡子規は1900年に大量に血を吐き、その2年後には息を引き取ることになります。このころはすでに体調が非常に悪く、ほとんど寝たきり状態になっていたと思われます。
それでもそこから見るクリスマスがいかに彼の心を喜ばせて和ませたかが、この句から伝わってきます。またこのときには、「クリスマスには贈り物を贈り合う風習」がすでに日本でも根付いていたことがわかる句でもあります。
正岡子規が読んだクリスマスの句にも、「クリスマス」という文化が日本に根付いていくまでの流れをみることができます。
<クリスマスを彩る数多くのアイテム、その誕生の歴史>
このような歴史をたどってきた「日本のクリスマス」ですが、現在クリスマスによくみられるようになった風習もまた、長い歴史のなかで少しずつ生まれていきました。
クリスマスグッズの販売……
1900年に、銀座に出店した「明治屋」が大々的にクリスマスグッズを売り出したのがきっかけとなり、多くの人にこれが受け入れられていったとされています。ちなみにこのときには、洋酒や洋食などの飲食物も売られていました。なおこのころにはすでに、「亀屋」「丸善」とともにクリスマスセールを行っていたと記されています。
イルミネーション……
上で挙げた「明治屋」は、単にクリスマスグッズを売り出すだけでなく、クリスマスにぴったりの装飾も行っていました。木下利玄という歌人が、この「明治屋のクリスマスイルミネーション」を題にとった作品を作っています。
クリスマスケーキ……
現在も残る「FUJIYA」は、創業当時の1910年からクリスマスケーキを販売していました。ただそのころのクリスマスケーキは、ドライフルーツと洋酒を使ったケーキであり、生クリームは使っていませんでした。また、「珍奇な食べ物」であるクリスマスケーキは、日本人にはあまり売れなかったとされています。
しかし1937年に伊勢崎町店をオープンしたころからクリスマスケーキが受け入れられるようになり、1955年ごろには今のような「生クリームたっぷりのショートケーキ」の原型ができたとされています。
心躍るクリスマス、先人たちの歩みを振り返りながら楽しむのも良いのではないでしょうか。