〔あおき葬祭コラム〕第72回:日本の宗教観の特異性~日本の年末年始の不思議

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ

日本は、世界でもまれにみるほどに宗教に対して寛容な国だといわれています。

その象徴ともいえるのが、「年末年始の宗教行事」です。

今回は、世界から見て不思議とも言われる日本の年始年末を「宗教」の観点から解説していくとともに、どうしてそのような独自の価値観が育まれたかをお伝えしていきます。

<「クリスマス」「除夜の鐘」「初詣」、それに関わってくる宗教とは>

年末年始は行事が目白押しです。「12月24日・25日のクリスマス」「12月31日の大晦日と除夜の鐘」「お正月の初詣」と、さまざまなイベントがあります。

私たちにとってはごく当たり前のイベントであるこの3つですが、これは「宗教」の観点から見るとなかなかユニークなものでもあります。

【12月24日~12月25日のクリスマス】

まず、「クリスマス」です。

これはいわずと知れたキリスト教の行事です。日本では「イエス・キリストの誕生日」としてよく取り上げられていますが、実のところ、聖書などには「12月24日(12月25日)はイエス・キリストが誕生した日である」という表記はありません。ただ彼の生まれをお祝いする日であるとされています。

ドイツなどではクリスマスマーケット(ヴァイナハツマルクト)が立ち、華やかで幻想的な雰囲気の街並みになります。日本でもイルミネーションが飾られ、プレゼントを交換し、ごちそうを食べる……という光景がよく見られています。

またクリスマスには教会でクリスマスミサ(カトリック)・クリスマス礼拝(プロテスタント)が開かれます。ちなみに日本のクリスマスミサ・クリスマス礼拝は、クリスチャン以外でも訪れることのできるものとなっています。

【年末の除夜の鐘】

次に大晦日の「除夜の鐘」をみていきましょう。

普段はあまり意識することはありませんが、「除夜の鐘をつくこと」は仏教行事に分類されています。また私たちが「除夜の鐘」と言っている大鐘の正式名称は、「梵鐘(ぼんしょう)」です。これは仏具のうちのひとつであり、その音には苦悩を払う力が秘められているといわれています。

除夜の鐘は、108回つくことを基本とします(ただし現在は比較的この回数制限がゆるやかで、「並んでいる人がいる場合は、1人に1回ずつつかせる」としているところもあります)。

この「108回」は一般的に、「人間の持っている煩悩の数」だといわれています。大晦日に除夜の鐘をつくことでこれを払い、気持ちよく新年を迎えられるというわけです。

ただ「108回」の回数の解釈にはいくつかの説があり、「108とは、1年を表している数字である」「人間が避けることのできない苦しみである四苦八苦を表している数字である」とする説もあります。

ちなみに、107回目までは大晦日につき、108回目は年が明けてからつくのが正式なやり方だといわれています。

いずれにせよ年末の除夜の鐘の考え方は、キリスト教などにはみられないものです。また神道の文化でもないため、これをつきたいのであればお寺に足を運ぶことになります。

【お正月の初詣】

初詣とは、年明けに初めて神社などにお参りすることをいいます。「初参り」ともいわれます。また、大晦日の夜から神社仏閣を訪れて年が明けてからお参りすることは、特に「二年参り」と呼びます(「大晦日に神社仏閣を訪れ、一度帰宅し、年が明けてからもう一度お参りする」というやり方をとることも二年参りと呼びます)。

ちなみにこの初詣の文化は、もともとは「年籠り」からきているとされています。年籠りとは、村長や家長が大晦日の夜に社寺を訪れてそこに籠り、一睡もせずに元旦まで過ごすという風習のことです。

初詣は、「年神様」を自宅にお出迎えするための行事と考えられています。日本では「氏神様」という文化が根付いているため、地元の神社にお参りするのが良いとされています。

「年神様をお迎えする」「年明けに初めて神社などにお参りする」という特性上、お正月の1月7日(地方によっては1月15日)までに行うべきものとされています。なかには「1月1日に家族でお参りしてから家に戻ってきて、そこで初めておせち料理を食べる。何よりもお参りが先」としているご家庭もあります。

この初詣は、一般的には神道の儀式とされています。よく「日本人はクリスマスにキリスト教の教えに接し、除夜の鐘では仏教に親しみ、初詣は神道の考えによって行う」といわれているのはこのためです。

ただし実際には、初詣は「神社に参らなければならない」と決められているわけではありません。お寺に初詣で行くこともできます。ちなみに、「神社とお寺の両方に行く」というやり方をとってもまったく問題ありません。

なおこのような「神社に行ってもお寺に行っても問題ない、両方に足を運んでも構わない」という考え方もまた、日本の自由な宗教観を表しているものだといえるでしょう。

※2021年12月現在、新型コロナウイルス(COVID-19)の影響もあり、クリスマスや年末年始のお参りに制限を設けている教会・神社仏閣もあります。参拝の際には必ず最新の情報にあたるようにしてください。

<どうしてこんなに「こだわりのない」宗教観が生まれたのか?>

私たちにとってはごく当たり前のように感じられる年末年始の行事ですが、これは世界からみると非常に特異なことに移ります。

諸外国では、「絶対神・一神教」の文化がよくみられます。これは「ただ一人の神様だけを至高の存在とし、敬う」という考え方です。このような考え・文化を持つ人にとっては、当たり前のように諸外国の宗教文化を受け入れてきた日本の姿は非常に奇異なものに見えるでしょう。現代の日本においては「宗教戦争」という争いは非常に遠いものに思えますが、外国では今でも宗教観の違いによって血が流されることすらあります。

日本人のこの特異性は、憲法によって「信教の自由(宗教を信じるか信じないか、あるいはどの宗教を信じるかは、すべて個人の考え方によるものであり、自由であるとする考え方)」が保証されているというだけでは説明ができません。日本が昔から持ってきた「神をどうとらえるか」をみていく必要があります。

日本では昔からアミニズム思想があったとされています。このアミニズム思想とは、ごく簡単にまとめるのならば、「万物のなかに魂や霊、神様が宿る」という考え方であるといえます。

たとえば「付喪神」「お米の神様」がその代表例です。日本では「長く使われてきたものには霊が宿る」「植物・食べ物には神様が宿る」などのように考え、万物に魂・霊・神様が宿るとしてきたのです。

この考え方は、ほかの宗教を広く受け入れられる土壌を作り上げてきました。もちろんかつては激しい宗教戦争・宗教弾圧がありましたが、基本的には「外から入ってきた異教の文化(キリスト教など)を受け入れる」というスタイルになっていったのです。

また法律(「神仏分離」。1868年に明治政府が布告した)によって分けられる前は、神道と仏教も一緒になって存在していました。このため現在でも、神道と仏教では共通するところが多いといえます。上記で「初詣では基本的には神社に向かうことが多いが、お寺に行っても問題ない」としましたが、このような考え方もまた、神道と仏教が一体化していた時期の名残なのかもしれません。

国際空港に礼拝室・祈祷室が設けられたことも、日本人の宗教観を表すものであるとして海外でも報じられました。

宗教にこだわらないという日本の「宗教観」は、世界でも珍しいものだといえるでしょう。