〔あおき葬祭コラム〕第61回:お茶と仏教、その意外な関わりについて

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ

仏教は日本において非常にメジャーな宗教です。普段は仏教の影響などを一切気にしないで生きている人も多いかと思われますが、日本で古くから信じられてきた仏教は私たちの生活のなかにさまざまなかたちで溶けこんでいます。

そのうちのひとつが、日常的に飲まれている「お茶」です。

ここではお茶と仏教の関係について解説していきます。

<実はお茶は、僧侶である栄西によってその飲み方が広められた>

私たちにとって非常になじみ深い飲み物である「お茶」は、だれもが必ず一度は口にしたことのあるものです。常用している人が大半であると言っても過言ではないほどに親しまれているこのお茶ですが、それを持ち込み広めたのが実は僧侶であることは意外なほどに知られていません。

お茶の飲み方や効能を説いた僧侶の名前は、「栄西」です。

彼の人生をたどりながら、仏教とお茶の関係について解説していきます。

栄西は、今から880年ほど前に現在の岡山県あたりに生まれました。栄西の家系は神官の家系であり、幼名は千寿丸といいました。

仏教にも通じていた栄西(千寿丸)の父親は、子どもに対して仏教と神道の考え方を教えます。今の価値観からすれば「神官が仏教を教えること」に疑問を抱く人もいるかもしれませんが、神仏分離がなされたのは1800年になってからであり、この時代は仏教と神道は明確に分けられていませんでした。そのため神官である栄西(千寿丸)の父親が、仏教にも神道にも通じていて、かつそれを息子に伝えたことは不思議なことでもなんでもありません。

そのようにして育った栄西(千寿丸)は、11歳のときに出家します。彼は安養寺の静心と呼ばれる僧侶に師事します。静心は天台宗の僧侶であり、栄西(千寿丸)にその考え方を伝えます。

13歳になった栄西(千寿丸)は、当時からすでに仏教の山として知られていた比叡山に入り髪の毛を落とし、正式な僧侶となりました。ここまで「栄西(千寿丸)」として幼名とともに表記していましたが、ここからは僧名である「栄西」と表記していきます。

栄西は比叡山と安養寺で修行を積んでいきますが、17歳のときに師であった静心を亡くします。その後も兄弟子について天台密教を学んでいきます。

18歳ごろになると、栄西は比叡山での修行に打ち込み始めます。しかし当時の比叡山は非常に荒れており、腐敗しきった山となり果てていました。このような状況に心を痛めた栄西は、やがて中国に目を向けるようになります。

仏教はインドを発祥としますが、その後で中国にわたり、中国でも広く信仰・研究されるようになった宗教です。そのうえ当時の中国は日本にとっての「お手本」であったため、栄西が大陸のこの大国家に思いをはせることは、ある意味では当たり前のことだといえるでしょう。

中国に渡った栄西は、天台山に向かうことになります。そこで禅の概念を学び始めるのですが、座禅をしているとどうしても眠気がやってきます。このときの眠気を祓うための飲み物として使われていたのが、「お茶」であったのです。ここで栄西はお茶と出会い、その効力に驚き、後年はそれを書物に記したとされています。

<その後の栄西の足取りとお茶の伝播について>

栄西が中国にいた期間は、それほど長くはありません。

半年程度の滞在ののち、日本に帰国することになります。日本に戻ってきた栄西は比叡山に向かい、当時の座主であった明雲に書物を納めます。座主は栄西をとりたてていましたし信頼もおいていましたが、栄西は周りの人間からねたまれることに疲れ、比叡山を降りて故郷に帰ります。

その後密教や禅の教えを布教することに努めますが、なかなかうまくいかなかったとされています。ただ1175年には新しく建てられたお寺に迎え入れられ、12年間の長きにわたり、そこで過ごすことになります。時の天皇である後鳥羽天皇が栄西の書物に触れて、当時都を悩ませていた干ばつを納めるための祈りを捧げさせたという逸話もあります。なおこの祈りは成功し、天皇は「葉上」という称号を栄西に与えたとされています。

ただそのように天皇の信頼を受けるなかであっても、栄西の中国への思慕は収まることはありませんでした。そのため、1187年には再び中国にわたり、天台山に向かいます。ここで4年間の修行を積み日本に戻り、「建久報国寺」と呼ばれるお寺を作り上げます。また日本で初めてとなる禅のお寺を開き、布教活動に努めます。

時は鎌倉時代、政情が安定しないなかで、それでも栄西は二代目の将軍である源頼家の建てた建仁寺の祖となります。

その後も栄西は生涯にわたって僧侶としての活躍を続けることになりました。

<実は栄西の前にもいた?! お茶を日本に持ち込んだ人とは>

栄西は、日本に「お茶の飲み方」をもたらしたとされている僧侶です。上でも述べたように、栄西は座禅の最中にお茶の持つ効用に気づき、それを「喫茶養生記」というかたちで紹介しました。加えて、禅宗の寺院の僧侶にさまざまな規範を伝える「永平清規」において、お茶の礼儀作法を著わし、お寺のなかにお茶という文化を広く伝えた人物です。

また、栄西は臨済宗の僧侶ですが、その臨済宗のもとで禅の修行を積んだ人間である「村田珠光」という茶人は、今も残る「わび茶」の概念を生み出した人間だとされています。さらにいえば、だれもが知る茶道の大人である「千利休」もまた、禅のお寺でお茶の意味や礼儀作法を学びました。栄西が深く関わっている「お茶の飲み方」「お茶の作法」は、その後の日本の茶道文化の礎となったわけです。

ただ、実は栄西は日本に「お茶の飲み方」「お茶の作法」「お茶の効用」を伝えた人物であること自体は間違いないのですが、「お茶そのもの」が伝わったのはそれよりもずっと前なのではないかとされています。

「学問を学びに中国にわたる」というやり方は、栄西が活躍した時代よりもずっと前から行われていました。

そのため「お茶そのもの」を持ち込んだのは、栄西よりも250年ほど前に活躍していたほかの留学僧などであったと考えられています。たとえば最澄や空海などです。彼らによってお茶が日本に伝わったとされています。

ちなみに805年の段階で、すでに「比叡山の麓にて、お茶の葉を栽培していた」という記録が残されています。なおこのときに作られた茶園は今も残っていて、「日吉茶園のお茶の葉と、(当時彼らが持ち帰ったお茶の葉の故郷とされる)天台山のお茶の葉は、同じ種類のものである」という研究結果も出ています。

このようにして僧侶たちからもたらされたお茶は、現在の私たちの生活に欠かすことのできないものとなっています。

今も法事・法要でお茶がふるまわれますし、香典返しの品物としてお茶が用いられることもよくあります。お茶は好き嫌いが出にくい飲み物であること、キエモノであること、軽くて持ち運びがしやすいこと、日持ちすることなどから、香典返しの最適品としてよく知られています。

なお、一部の地域では棺にお茶を入れるという文化もあるそうです。これはお茶の持つ消臭効果を期待してのことだとされています。

私たちが毎日親しんでいるお茶のルーツも、たどってみれば意外なところにたどり着きます。

このような観点から、「いつも飲食しているもの」「いつも使っているもの」「いつも使っている言葉」を見直してみるのも、なかなか面白い試みなのではないでしょうか。