〔あおき葬祭コラム〕第55回:施餓鬼供養とは何のこと? 仏教における考え方

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「施餓鬼供養」という言葉は、多くの人にとってなじみのないものかもしれません。
しかしお盆の時期などに行われることもあるものですから、知っておくと戸惑わなくて済むでしょう。

ここでは「餓鬼」及び「施餓鬼供養」について取り上げます。

<「餓鬼」とは何を指すのか>

俗語として、「ガキ」という言い回しを聞いたことのある人は非常に多いのではないでしょうか。

現在ではカタカナで表記されることも多いこの言葉ですが、語源は「餓鬼」です。そしてこの「餓鬼」は、仏教と深い関わりがあります。

仏教には「六道」の考え方があり、そのなかでも「三悪道」という考え方があります。三悪道とは、生前で良くない行いをした者が落ちるとされている世界であり、「餓鬼道」もそのうちのひとつです(なおそれ以外の2つは、「地獄道」「畜生道」です)。

餓鬼道に落ちた人間は、常に乾きや飢えに苦しめられることになります。お腹ばかりが膨れ上がり、手足やほほはガリガリにやせこけています。また水や食べ物を得たとしても、それらは炎となったり血の膿となったりして、むしろ彼らを苦しめます。このように餓鬼道に落ち、苦しむ人を「餓鬼」と称します。ちなみに餓鬼には2種類あり、「財産がなく常に人の物を欲しがった人間」と、「金銭的に恵まれていながら、なお多くの金銭を求めようとした人間」に分けられるとされています。

また、無縁仏となってしまった人のことを「餓鬼」と称することもあります。

万葉集にはすでにこの餓鬼のことを取り上げた文章もあり、昔から仏教の世界においては非常によく知られた概念だといえるでしょう。

<施餓鬼供養の歴史をたどる>

このような餓鬼を供養するための考え方として、仏教には、「餓鬼」の概念とともに、「施餓鬼供養」の概念があります。これは「せがききよう」と読みます。また、施餓鬼供養は「施餓鬼会(せがきえ)」「施餓鬼」「お施食」とも表記されます(ここでは、特段の必要がない限り「施餓鬼供養」に統一します)。

この施餓鬼供養の歴史をたどっていきましょう。

施餓鬼供養の起源は非常に古いものです。

まだお釈迦さま(ブッダ、ゴーダマ・シッダールタ)が存命であり、インドで説法をしていたころにまでさかのぼることができるのです。

当時のお釈迦さまには、アーナンダー(阿難・阿難陀・アナンとも。ここでは「アーナンダー」に統一)という弟子がいました。十大弟子に数えられるアーナンダーが修行に打ち込んでいたとき、彼の目の前に、1人の餓鬼が姿を見せます。その餓鬼は、今でも書物などで見られるのと同じように、お腹ばかりが膨れていて手足は針のように細く、髪の毛は乱れぼさぼさで、非常に醜い姿をしていました。その餓鬼が口に含んだ食べ物は炎となって餓鬼の喉を焼き、餓鬼を苦しめました。

そしてその餓鬼は、アーナンダーに「お前も3日と経たずに死に、餓鬼道に落ちるのだ」と言葉をかけます。

その言葉を聞いたアーナンダーは、ただちにお釈迦様の元に足を運び、相談することにしました。

お釈迦さまはアーナンダーの言葉を受けて、「10万人の僧侶とともに、飢える人に施しを行え」と告げたとのことです。それを受けて言う通りにしたいと考えたアーナンダーですが、実際に10万人への施しをわずか3日でできるはずがありません。しかしお釈迦様は続けて、「陀羅尼」というお経をアーナンダーに教えます。このお経はわずかな量の食べ物を無限に増やし、多くの人に食事を与えることができるようになるというお経でした。

この教えに従い、アーナンダーはお経とともに食べ物を施します。その結果としてアーナンダーは餓鬼道に落ちることを免れ、お釈迦さまの入滅を見届けられるほどに長生きをしたとされています。

ちなみにこのように餓鬼がアーナンダーを脅したのは、アーナンダーの歩む修行の道が「アーナンダー自身のためだけのものである」と考えた体とされています。アーナンダーは一心に修行に励んでいましたが、それはあくまで自分自身が悟りを開くためであり、ほかの者に対する慈愛の心が薄いと餓鬼は考えたとされています。そのため、そのようなアーナンダーに気づきを与え、他者に施すことの意味を説くためにこのような言葉を述べたと考えられています。

なおこのような起源はあくまで一説であり、実際には諸説あります。たとえばアーナンダーに、「助かる方法」を授けたのはお釈迦さまではなく、ほかならぬ餓鬼本人であったとする説もあります。

<餓鬼に救いはあるのか?~「施餓鬼供養」の意味について>

生前の行いによって餓鬼道に落とされた、と解釈するのが仏教の基本ではありますが、それ

でも、彼らが未来永劫何の施しもなく苦しむことを良しとするのか、というとそうではありません。上記ですでに述べた「餓鬼に対する施し」からもそれが分かります。

アーナンダーの行った餓鬼への施しは、やがて「施餓鬼供養」として知られるようになります。

これは上でも述べた通り、餓鬼として苦しむ人のために食べ物や水を施すことをいうのですが、「それによって現生に生きる人間の徳となる」とする考え方でもあります。施餓鬼供養を行うことで自分たちが亡くなったときに、極楽浄土に旅立てるように……と願って行う行動でもあるのです。

この施餓鬼供養は、一般的に、ご先祖様の供養とともに行います。たとえばお盆の時期などに、お盆の供養とともに施餓鬼供養を行うわけです。また、秋のお彼岸の時期に行うこともあります。

施餓鬼供養のやり方は、一通りではありません。

お寺で大々的に施餓鬼供養が行われることもあれば、ご僧侶が家々をまわって個別に行うこともあります。また施餓鬼供養は、檀家だけを対象としたものだけではありません。寺院(ご僧侶)同士で集まって行われる施餓鬼供養もあります。

<それぞれの宗派と施餓鬼供養>

仏教には多くの宗派があり、それぞれで死生観が異なります。そのなかでも、浄土真宗は「亡くなった人はすぐに成仏するのだ」という考え方を持ちます。このような考え方を持つ浄土真宗においては、「施餓鬼供養」の解釈も異なります。

浄土真宗においては、「阿弥陀仏を信じる限り、人は亡くなったら必ず極楽浄土に行けるのだ」としています。そのため、生前の悪行によって餓鬼になるとする考え方はあまりそぐわないと考えられるため、原則として施餓鬼供養は行いません(※ただし、浄土真宗のお寺であっても、餓鬼の概念を否定しないところ[大塚1] もあります)。

また、座禅を修行の基本とする曹洞宗においては、「施餓鬼供養」「施餓鬼」という読み方はしません。

曹洞宗では、「施す者と施される者の間で、上下の関係は存在しない」とするため、「餓鬼に施す」の意味を持つ「施餓鬼供養」という表現は避けるのが一般的です。そのため、曹洞宗では特によく「施食(せじき)」「施食会(せじきえ)」の表現が用いられます。

このように、施餓鬼供養に対する考え方は宗派によって多少の違いがみられます。

なお、一般家庭において施餓鬼供養を行ってもらう場合は、だいたい3000円~10000円程度のお布施を包むようにします。施餓鬼供養の場合は地味な平服でも構わないとされていますが、礼服を着て行っても構いません。仏教行事のうちのひとつですから、お数珠は忘れずに持参します。

悪道に落ちた人間に対しても救いと施しをと考えて行われる施餓鬼供養は、非常に意味のあるものです。

その由来などを知って、きちんと向き合いたいものですね。