「仏教といえばお経である」と感じている人は多くいるのではないでしょうか。
葬儀のとき、法要のとき、また日常生活においても唱えられるこの「お経」が、どのような成り立ちを持っているのか、どのように伝えられていったのか、そしてどのような意味を持つのかについて解説していきます。
<お経とは長い年月を経てなお語り継がれているブッダの言葉である>
仏教の始祖であるブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)は、紀元前7世紀~紀元前5世紀ごろに生を受けたといわれています。彼の生まれた年には諸説あり、はっきりとはわかっていません。しかし彼が長じて、現在も世界各国に受け継がれる大きな宗教の始祖となったのはたしかな話です。
ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)は、その修行の過程、あるいは伝道の過程において、いくつもの言葉と教えを残していきました。現在でもブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)のエピソードが伝えられています。
ただ、現在残っているブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)の言葉は、当時のブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)がそのまま直接書き残したものではないとされています。また当時は、当然のことながら音声を録音するための機械もありませんでした。そのため現在残っているブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)の言葉は、彼の弟子たちが文字に書き起こしたものだといわれています。そのような人力での作業でしたから、現在残っているブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)はかなり少なく、時間経過のなかで失われていった言葉、そもそも書き留められなかった言葉も相当数あると考えられています。
弟子たちはブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)のことばを大切にし、「如是我聞」という言葉で書きだす文面を多く残しました。これは、「私(我)はこのように聞いた(聞)」「かくの如く我は聞いた」という意味であって、ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)の弟子である阿難(あなん)が書きだしたものとされています。
ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)は、説法を行うときに基本的に1対1で話したとされています。相手の理解度などに合わせて、時に動物に例えたり、時に簡単な言葉を使ったりしながら説法を続けていったということです。
そしてそのなかには、現在も多くの人が悩む「人間関係の悩み」などについても取り上げられていたとされています。
このようにして受け継がれたブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)の言葉が、現在の「お経」の原点となり、数千年を経た今でも脈々と受け継がれているというわけです。
<仏教の宗派と読まれるお経の違いについて>
ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)が開いた仏教は、時間の経過とともに、いくつかの派閥に分かれていきました。そのどれが正しく、またどれが間違っているとは決していえません。ただ、「ブッダ(ゴーダマ・シッダールタ/釈迦)の語った言葉」を基本としているため交わることも多い一方で、唱えるお経が違ったり、死生観などが違ったりするのも確かです。
そのため、「主に唱えるお経」もまた、それぞれの宗派で違いがみられます。
たとえば、以下のような代表例があります。
・般若心経(はんにゃしんぎょう)
・法華経(ほけきょう)
・華厳経(けごんきょう)
・浄土三部経(じょうどさんぶきょう)
それぞれ簡単に解説していきます。
【般若心経(はんにゃしんぎょう)】
おそらく、もっとも広く知られているであろうお経です。特に自分の宗派を意識したことのない人、無宗教の人、そして仏教以外の宗教を信じる人であっても、この単語は聞いたことがある……という人も多いのではないでしょうか。
般若心経は数多くの宗派によって語られているお経です。たとえば浄土宗や天台宗、真言宗、曹洞宗などがその代表例です。ただし、浄土真宗や日蓮宗では般若心経は読まれません。このあたりはそれぞれの宗派の考え方の違いによります。
ちなみに「般若心経」という呼ばれ方は略称です。正しくは「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)」、または、「般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみたしんぎょう)」です。ただ、一般的な会話ややり取りでは、「般若心経」と言えば十分に通じます。
【法華経(ほけきょう)】
大乗仏教における代表的なお経であり、その成立の初期にはすでに成立していたとされています。人の平等さをうたうお経であり、これも般若心経同様非常によく知られています。なお、正式な名前は「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」とされます。
この法華経は、日蓮宗や天台宗によって語り継がれています。なおその存在や解釈がしばしば議論の的となることもある仏教系の新興宗教である「創価学会」もまた、この法華経を基本としているとされています。
【華厳経(けごんきょう)】
正式名称は「大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)」といいます。仏を絶対的な存在ととらえるお経であるとともに、「仏になるための修行は、華である。そして徳を積むことによって、仏に至ることができる」とするお経です。仏の光は混迷の中にある人を浄土に導くとも説きます。
このお経は、名前からもわかる通り、華厳宗によって語り継がれています。
【浄土三部経(じょうどさんぶきょう)】
主に、浄土真宗や浄土宗、時宗でうたわれているお経です。「三部経」というところからわかる通り、これは「無量寿経(むりょうじゅきょう)」「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」「阿弥陀経(あみだきょう)」の3つから成り立っているお経を指します。阿弥陀仏のことや極楽のこと、また極楽に生まれるにはどうしたらいいのかなどを語るお経です。ちなみに3部から成り立ちますが、行事やお寺によっては、「この行事のときにはこのお経だけを読む」などのようにされることもあります(ただし、明確な決まりがあるわけでもありません)。
なおこのなかでも「阿弥陀経」は特に短いことで知られています。お経には長いものも多いのですが、阿弥陀経は15分程度で読み終わります。
<般若心経の意味について>
ここまで「お経の成り立ち」「それぞれの宗派で主に唱えられているお経」について取り上げてきました。
お経の意味をすべて解説するのは非常に難しく、また長くなってしまいます。そのためここでは、比較的よく読まれている般若心経の意味をごく簡単に解説していきます。
般若心経においては、
1.私たちはすべて、実体のないもので構成されている
2.もともと実体がないのであるから、感覚も存在せず、また減りもしなければ増えることもなく生まれ出でることもなく滅びることもない
3.人の苦しみはなくなることはなく、またなくす方法もない。そして、物事を知ることもなければ得ることもない。それを理解する人は、心に妨げとなるものもない
4.妨げがない心には、おそれは存在しない
5.仏様は悟りを開いておられる。そのような仏様の語る言葉は、大きな力を持っている最上のものである
6.仏様の言葉は、すべての苦しみを解決する真実の言葉であり、知恵である
7.ここに、その真実の言葉を伝える
としています。
これは非常に簡潔に示したものですが、「人とは実体のないものである」と説いているのが般若心経の大きな特徴です。
このように、私たちが耳にする「お経」には語り継がれる意味があり、仏教の考えるところの真実があります。一度意味をじっくり考えてみるのも面白いものです。