〔あおき葬祭コラム〕第37回:仏教の主な宗派~親鸞が開いた浄土真宗

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仏教は長い歴史がある宗教であり、そのなかでさまざまな宗派に分かれてきました。

今回はそのなかから、在来仏教のひとつである「浄土真宗」について取り上げます。

<歴史の授業などでも出てくる「浄土真宗」、その開祖「親鸞聖人」について>

「浄土真宗」は非常によく知られた在来仏教のひとつであり、歴史の授業などでも出てくるものです。中学や高校の日本史において、この言葉を軽く学んだという人も多いのではないでしょうか。

この浄土真宗の歴史は、鎌倉時代にまでさかのぼることができます。「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」によって開かれた宗派です。

親鸞聖人は9歳という非常に幼い年齢で出家しました。彼はその後、20年間にわたり、比叡山で修行を積みます。しかし20年の修行を経ても彼の持つ内面の懊悩は解決することがなく、その後、いったん比叡山を折、法然に支持します。法然は、これもまた非常に有名な在来仏教である「浄土宗」の開祖として知られる人物であり、1176年に宗祖となりました。

この法然の下で、浄土真宗は弟子として修行を積み始めます。ただ、法然はその後流刑の憂き目にあいます。このことに関しては、「浄土宗」の解説のページを参考にしてください。

このとき、弟子であった親鸞聖人も流刑にされることになり、越後へと流されます。

越後へと流された親鸞聖人は、還俗(俗人に戻ること)を行います。しかし親鸞聖人が、この還俗をもって、「完全な俗人になったか」というとそうでもありません。親鸞聖人は「非僧非俗」という立場を貫くことになります。これは「僧侶ではなく、さりとて俗人でもない」という意味です。

親鸞聖人は妻(恵信尼)と子どもとともに暮らしたことでも知られていますが、これもまた、親鸞聖人が「非僧非俗」であったことから来るものでしょう。現在でこそ違いますが、当時は僧侶の妻帯は認められていませんでした。また女性は男性に劣るものであるとされていました。仏教の開祖であるゴーダマ・シッダールタが、「修行の妨げになる」として妻子を捨てて出奔したのはあまりにも有名です。

しかし親鸞聖人は、男女の別なく、身分の貴賤もないという考えの元妻帯し、その後も妻とともに信心を積んでいきます。

現在でこそ整った環境にある北陸道(現在の新潟あたり)ですが、当時の越後は非常に厳しい環境にありました。そこで親鸞聖人は、5年ほどの時を過ごします。その後に茨木~群馬~長野などを通り、現在の関東に落ち着きます。この関東の草庵が、親鸞聖人の布教の場所となりました。

京都が文化の中心の時代ではありましたが、鎌倉幕府が開かれたこともあり、関東もまた大きな賑わいを見せていました。このなかで親鸞聖人は教えを広めていくことになります。

親鸞聖人の人気をねたんだ者から命を狙われるなどの危険もありましたが、その暗殺者を親鸞聖人は受け入れ、弟子にしたとされています。

関東で20年ほどの布教を終えたのち、親鸞聖人は京都に戻ります。そしてそこで、現在の聖典となる「教行信証」の執筆を勧めていきます。これは幾度もの添削を続けながら完成させられました。

その後、親鸞聖人は2人の子どものみを手元に置き、ほかの子どもと妻を越後に帰します。長く寄り添ってきた妻は、その後、実家で資産を継いだともいわれています。

親鸞聖人の内面の修行はその後も続き、現在の浄土真宗の根底にある「他力本願」の考えた方や境地を弟子に語るに至ります。

親鸞の生涯は、90歳のときに幕を下ろすことになります。現在でも90歳といえば非常に長生きの部類に入りますが、当時であれば、まさに記録すべきご長寿だったといえるでしょう。体調を崩し徐々に弱っていくなかであっても、親鸞聖人は念仏を唱え、仏様のご恩について思いをはせたとされています。

そして最後、ゴーダマ・シッダールタと同じように、北枕で西向きの顔で、右側を下にして入滅されました。

<複雑な経緯をたどる浄土真宗のゆくえ>

親鸞聖人が入滅されたのは1263年のことですが、浄土真宗はその後複雑な経緯をたどっていくことになります。

親鸞聖人のご遺骨は、最初はごく簡素に祀られていました。しかし1272年に立派な六角の廟堂が建てられ、そこにご遺骨が移されることになります。これが「大谷廟堂」です。この大谷廟堂はやがて「本願寺」というかたちで寺院の形態をとることになります。

上でも紹介しましたが、親鸞聖人は非僧非俗の立場をとっていた人であるため、子どもがありましたし、またその子どもも自分たちの血筋を受け継いでいきました。そのため、親鸞聖人にとって「ひ孫」である人も当然いたことになります。このひ孫であった覚如が、大谷堂を守護する役目に就き、「三大伝持の血脈」として、自分自身が親鸞聖人の教えを正しく継いだとしたのです。

親鸞聖人は関東での活動時期も非常に長かったため、関東にも親鸞聖人の教えを継ぐ直弟子がたくさんいました。しかしこの宣言を以て、浄土真宗は、関東と関西の統一を図ったといわれています。

ただこの後も浄土真宗の苦難は続きます。戦乱に巻き込まれることになり、8代目の蓮如は本願寺を後にせざるを得ませんでした。その後は北陸や大阪などを転々としていきますが、再度つくられた本願寺も陥落するなど、浄土真宗は戦乱とは無関係ではいられませんでした。

本願寺が現在のかたちになるにはさらに時代が進み、11代めの時代になってからです。

さらにその後も、東本願寺と西本願寺の間が分裂することになり、この分裂は今も続いています。なお東本願寺は特に「真宗大谷派」、西本願寺は特に「浄土真宗本願寺派」と呼ばれています。

<浄土真宗の教えと考え方>

浄土真宗の教えの基本に、「他力本願」というものがあります。これは現在でこそ「人の力をあてにする」などのように解釈されていますが、浄土真宗で言う「他力本願」はまったく意味が異なります。

浄土真宗において、「他力」とは「阿弥陀如来(阿弥陀仏)の力」を指します。阿弥陀如来(阿弥陀仏)は、命あるものすべてを慈しみ救ってくださると考えるのです。浄土真宗では、常に人に手を差し伸べて下さる阿弥陀如来(阿弥陀仏)の力のみを頼みとします。そのため、ほかの宗派ではよくみられるお守りや御朱印も、浄土真宗においてはみられません。

また、浄土真宗では「亡くなった人はすぐに阿弥陀如来(阿弥陀仏)によって救われる」とします。そのため葬儀の場面においては、「供養」を必要としません。浄土真宗においては、祈る対象はあくまで阿弥陀如来(阿弥陀仏)であって、故人の供養のために祈るという考え方自体が存在しません。香典袋の表書きとして、「どんな宗教・どんな宗派でも使える」とされている「御霊前」も、厳密にみたときには、浄土真宗ではNGとされるのもこれが理由です(※実際の葬儀の場面においては、浄土真宗の式に「御霊前」としたものを持っていったとしても、咎め立てられることはまったくと言っていいほどありません)。

このような考えをとるため、「戒名」もつけません。浄土真宗においては、戒名ではなく、「法名(ほうみょう)」をつけることになります。これは仏様の弟子になったときに使うものです。

なおかつては塗り位牌を使わないのが基本です。浄土真宗のなかでも「高田派」と呼ばれる宗派だけは塗り位牌を用いるとされていましたが、現在ではそれほど厳密には考えられておらず、「故人の記録」などの意味で塗り位牌を用いるご家庭も増えています。