このコラムは、お釈迦さま(ブッダ)の生涯を追っていくコラムです。
先月のコラムでは、「お釈迦さま(ブッダ)がインドボダイジュの下でマーラを退け、悟りを開いた。そしてそこで縁起と十二因縁を悟った」というところまで解説し、十二因縁とはどのようなものかまでを解説しました。一般的にここまでの過程は、インドボダイジュの下で過ごしてから7日目のことだったとされています。
今回の記事では、8日目以降のお釈迦さま(ブッダ)の足取りについてみていきましょう。
<8日目以降のお釈迦さま(ブッダ)の足取り>
7日間を過ごした後、お釈迦さま(ブッダ)は場所を移動します。インドボダイジュの側を離れ、今度はニグローダジュ(尼抱盧陀樹。単純に「ニグローダ」と呼ばれることもある)の下に足を進めます。ここでさらに7日間を過ごします。なおこの「ニグローダジュ」はお釈迦さま(ブッダ)の生き様を語るうえでピックアップされる頻度は決して高くはありませんが、専門的な研究資料などを見ていくと、「五樹(の教え)」として取り上げられているのをみることができます。この五樹(の教え)は、「ニグローダ」「ウドンバーラ」「ブラクシャ」「カッチャパ」「カピッター」の5つであり、そのなかでも特に「ニグローダ」は大きな樹であるとされています。五樹は、そのままにしておくとほかの木々を圧迫してしまいます。人間の心もそれと同じで、正しくない状態にあると良くない心持ちが善なる心を覆ってしまうとし、戒めているのです。
そしてその後に、ラージャヤタナジュ(羅闍耶多那樹)の元に足を運びます。
お釈迦さま(ブッダ)は、今度はここで7日間を過ごすことになります。ここでは解脱を味わいました。
そして22日目になると、今度はまたニグロージュの下に戻ってきます。ここで、お釈迦さま(ブッダ)は今後の仏教の広まりを左右することになる事柄について考えるようになりました。
私たちはこの記事で、「仏教がどのように広がっていったか」「仏教を広めたお釈迦さま(ブッダ)はどのような人物であったか」を追っていますし、私たちはすでに「お釈迦さま(ブッダ)は仏教をつくり、広めた人」という認識を持っています。
そのためつい失念してしまいそうになるのですが、この段階では、お釈迦さま(ブッダ)はまだお釈迦さま(ブッダ)本人が悟りを開いたにすぎず、それをだれかと共有しているわけではありませんでした。
そこでここで過ごすことになる22日目以降に、「ではこの悟りをほかの人に広めるべきかどうか」「悟った内容を周知するべきかどうか」を考えることになるのです。
この懊悩は実に28日間もの間続きます。そしてお釈迦さま(ブッダ)は、ひとつの結論に至ります。
それは、今の私たちからすれば信じがたいともいえる結論でした。お釈迦さま(ブッダ)は、「ほかの人に説いても無意味だろう」という結論に至ったのです。
<「悟りを広めない」とお釈迦さま(ブッダ)が決めたわけと、それが覆された理由>
お釈迦さま(ブッダ)が「悟りの内容を人に伝えない」と決めた理由は、「そもそもほかの人には、悟りに至ることができないだろう」というものでした。
悟りに至る境地も、また仏教も、世間の人々に言葉を尽くして語ったところでそれを理解してもらうことは難しく、ただの疲れるだけだろうとお釈迦さま(ブッダ)は考えたのです。
これは特に、「説法不可能の絶望」と呼ばれます。
お釈迦さま(ブッダ)がこの考えをずっと持っていたのならば、私たちは令和の現在、お釈迦さま(ブッダ)の考えに触れることもなければ、仏教を知ることもなかったといえます。
しかしそのように考えるお釈迦さま(ブッダ)の元に、梵天(ボンテン)が現れます。
梵天は日本でも比較的よく知られた神様であるため、名前を聞いたことのある人もいることでしょう。
梵天は古代インドのバラモン教において神として崇められており、最高位についていました。3大神の1人に数えられており、それ以外の2人として、これも有名な「ヴィシュヌ神(宇宙を保つ神)」と「シヴァ神(破壊の神)」がいます。もともとはバラモン教の神でしたが、仏教においては、「仏法を守る神様」として取り上げられるようになりました。そしてこの梵天の対として、帝釈天(タイシャクテン)がいます。
梵天はお釈迦さま(ブッダ)に対して、「梵天勧請(ボンテンカンジョウ)」を行います。梵天勧請とは、梵天がお釈迦さま(ブッダ)に対して「悟りを開いたのであれば、それをほかの人に対して説いてくれ」と説いたことをいいます。梵天はお釈迦さま(ブッダ)の得た悟りをほかの人に対して説かないのは、人類にとってよろしくないことだと考えたわけなのです。「説法不可能の絶望」に陥っていたお釈迦さま(ブッダ)を、実に3度も勧請しました。そしてその後で、「その悟りに確信を持つために、五比丘に説こう」と語り掛けます。なお五比丘は「ゴビク」読みます。
彼らはお釈迦さま(ブッダ)とともに苦行を行っていた5人のメンバーだとされています。また一説によれば、「もともとはゴーダマ・シッダールタ(お釈迦さまの名前)の父王から、ゴーダマ・シッダールタの護衛を申し付けられた人物であるということです。
しかし彼らは修行のなかでやがてお釈迦さま(ブッダ)とたもとを分かちました。この五比丘に対して説法を行うために、お釈迦さま(ブッダ)はまた旅立つことになります。
<五比丘との再会、そして最初の弟子を得る>
ワーラーナシーという土地で、お釈迦さま(ブッダ)は再び五比丘と出会います。
かつてはお釈迦さま(ブッダ)と違う道を歩んだ五比丘でしたが、悟りを開いた後のお釈迦さま(ブッダ)から、仏法を実践的に教わることになります。
なお、この時の説法は、特に「初転法輪(ショテンポウリン)」と呼ばれています。仏教において核となる考え方でもあったとされています。
初めのうちこそ反発心もあった五比丘でしたが、悟った後のお釈迦さま(ブッダ)の説法を聞くうちに変化が起きます。五比丘のうちの1人であるアージュニャータ・カウンディンニャ(「コンダンニャ」と表記されることもある)が悟りを開いたのです。続く4人も次々と悟りの境地に至りました。
これをみたお釈迦さま(ブッダ)は非常に喜び、彼ら五比丘と自分を合わせて、「6人の阿羅漢(一切の煩悩を建った人間のこと。仏教における最高の段位とされる)である」と称しました。
ここに、お釈迦さま(ブッダ)の最初の弟子が誕生したわけです。
この五比丘は、お釈迦さま(ブッダ)の生涯を語るうえで、また仏教そのものを語るうえで、非常に重要な人物となります。お釈迦さま(ブッダ)には多くの弟子がいましたが、この五比丘は多くの本で、「お釈迦さま(ブッダ)の最初の弟子」として真っ先にその名前が挙げられています。
悟りを開き、またその悟りの考え方を広めようとしたこの段階は、お釈迦さま(ブッダ)の人生においていくつも訪れていた転機のうちのひとつだといえるでしょう。
そして同時に、今までは「自分一人のものであった悟りの概念」が、お釈迦さま(ブッダ)だけのものではなくなり、ほかの人に広まっていくことになったきっかけでもあります。
この後もお釈迦さま(ブッダ)の生涯は続いていくことになります。