〔あおき葬祭コラム〕第28回:ブッダ(お釈迦さま)の生涯(4)

投稿日 カテゴリ おあきの葬祭コラム, お知らせ, ブッダの生涯

ブッダ(お釈迦さま)を追うのが、このブログの役目でもあります。前回は、ゴーダマ・シッダールタ(お釈迦さま)が恵まれた境遇や家族、これまでの生き方のすべてを捨てて王宮を出たところから始まりました。そしてブッダ(お釈迦さま)は、出家先で複数の師と出会います。しかしその師たちの教えもまた、ブッダ(お釈迦さま)を納得させるものではありませんでした。

ブッダ(お釈迦さま)は自ら苦行のなかに身を置き、スジャータによって乳がゆなどを恵まれる生活を続けることになりました。

今回は、そんなブッダ(お釈迦さま)が悟りを開いてからしばらくの道筋を追っていきます。

<35歳、ブッダ(お釈迦さま)はついに悟りを開かれる>

苦行のなかに身を置きながらもスジャータの優しい心遣いと乳がゆの恵みを受けて、ブッダ(お釈迦さま)は気力を回復させることができました。

その後、ついにブッダ(お釈迦さま)は「サトリ」の境地に至ることになります。

菩提樹の下で瞑想をし始めたブッダ(お釈迦さま)には、数多くの試練が襲い掛かります。マーラという悪魔(魔神ともいわれる)がブッダ(お釈迦さま)に、さまざまな妨害行為を行います。きれいな女性をけしかけたりさまざまな武器や兵隊を贈りこんだりして、欲を喚起させようとしたり恐怖させようとしたりしたのです。しかしブッダ(お釈迦さま)はそれにめげることも屈することもなく、このマーラを果敢に退けます。そして1日中瞑想を行い、ついに悟りを開くことになったのです。

この「悟りを開いたこと」は、仏教のなかでも大きな意味を持ちます。そのため、ここの悟りを開いたときに出てきたさまざまな名称や事柄は、今でも仏教のなかで特別なものとして記憶されています。

たとえば悪魔であり魔神であるマーラは、やがて男性器を象徴する言葉である「魔羅(マラ)」となりました。性欲は煩悩のひとつであると仏教はみなしますが、この性欲の象徴である男性器が修行の妨げになるとして、マーラの名前をつけたともいわれています。

また、マーラを退けたことを「降魔(ごうま)」といいます。これは「魔が降りてくる」と書きますが、実際には「悪魔・魔神を降伏(ここでは『ごうぶく』と濁る読み方をする)する」という意味になります。また、この「降魔」と関連付けられる言葉として「降魔成道(ごうまじょうどう)」があります。この「降魔成道」とは、「悪魔・魔神を退けて、ブッダ(お釈迦さま)が悟りを開いたこと」を示す言葉であるとともに、仏教の原点ともなる考え方です。

なおこの「(降魔)成道」という言葉はもちろん現在も生き続けており、この日に「成道会」を行うことになっています。また、悟りを開かれた土地がガヤー地区であったことから、ここは巡礼場所としてもよく取り上げられています。

もう1つ取り上げておきたいのが、「菩提樹」です。菩提樹は、「インドボダイジュ」「天竺菩提樹」ともいわれます。現在ではインドの国花ともなっているこの木は、ブッダ(お釈迦さま)が悟りを開かれるときに座った場所にあった木とされています。

仏教には「三大聖樹(さんだいせいじゅ)」と呼ばれる特別な木があります。まず1つめは、「無憂樹」です。阿輸迦の木(あそかのき)とも呼ばれるもので、ゴーダマ・シッダールタ(お釈迦さま)の母親であるマーヤー夫人が、この木の下でブッダ(お釈迦さま)を生んだとされています。詳しくはこちらの「ブッダ(お釈迦さま)の生涯-第。

続く1つが、この「菩提樹」です。そして3つめに挙げられるのが、ブッダ(お釈迦さま)が亡くなるときにその木の下に横たわったとされる沙羅双樹です。

※ただし、菩提樹は現在でも日本のお寺に植えられているものの、それはインドボダイジュではなくシナノキ科の菩提樹です。これは実は勘違いから始まった話だとされています。昔、仏教を広めるために中国に旅をした僧侶が、シナノキ科の菩提樹をインドボダイジュと間違えて持ち帰り、植えたことがきっかけであるとされています。

このように、「ブッダ(お釈迦さま)が悟りを開いた日」には多くのエピソードと、そこから派生したたくさんの言葉があるのです。このことからも、「悟りを開いた日」がいかに重要視されているかがわかります。

<ブッダ(お釈迦さま)の悟り~十二因縁について知ろう>

悟りを開いたブッダ(お釈迦さま)は、すぐにそこから動いたわけではありません。

ブッダ(お釈迦さま)はそのまま7日間の間、菩提樹の元で、さまざまなことを悟っていきます。

その悟りの1つに、「十二因縁(じゅうにいんねん)」があります。これについて解説していきましょう。

十二因縁は、「十二縁起」「十二縁生」などのようにいわれることがあります。私たちが日常で使っている「縁起」という言葉も、この十二因縁に関わる言葉です。

仏教ではさまざまなものが干渉しあって存在しているとされていますが、ブッダ(お釈迦さま)は「人間の悩みや苦しみはどこからくるのか」を理論だって考察し、追及していきました。そしてその過程で、相互に関わりを持つ「十二因縁」の概念を持ちました。

十二因縁は、以下の通りです。

1.無明(むみょう)……現在でも、その分野について詳しくないことを「(その分野には)明るくない」という表現をします。無明の状態とは、人が生きる意味を知らず、また知ろうと考えることもない状態をいいます。

2.行(ぎょう)……私たちは、人間は意思を持って動いていると考えています。しかし実際には無意識で行動しているところも多く、しかもその営みを何億年と繰り返してきました。これを「行」とします。

3.識(しき)……行が積み上げられてできたものを、「識」といいます。習慣によって得た知識ではありますが、その実態はまだしっかりとはしていません。

4.名色(みょうしき)……識が発達したかたちをいいます。自分自身を知覚することができるのですが、同時に、本来は履かないものである体を「永遠に存在するものだ」と考えてしまうことも指します。

5.六処(ろくしょ)……視覚・聴覚・触覚・味覚・近くの6つの働きと、それによってさまざまな分別が可能になる状態です。

6.触(そく)……4と5が関わり合い、自らの意思ではっきりと目の前の事柄を判断できるようになります。

7.受(じゅ)……さらに人間が成長していくと、「感情」が生まれます。その最初の感情を、「受」といいます。

8.愛(あい)……ここでいう「愛」とは、恋愛的なものではありません。「自分が心地よく感じられることに、しがみつきたいと感じる状態」をいいます。

9.取(しゅ)……愛によって得たものを放したくないと考えたり、好ましくないものから遠ざかろうと感じたりする気持ちをいいます。

10.有(う)……他者と自分は違うのだという、区別をする気持ちをいいます。これによって争いが生じると仏教では考えます。

11.生(しょう)……生まれることをいいます。最初の段階である1をクリアしないと、何度生まれ変わっても、苦しみが生まれると考えます。

12.老死(ろうし)……仏教の基本的な考えとして、「人は死から逃れられない」「人は(不慮の事故などでなければ)必ず年をとって死ぬ」と考えます。しかしその前に徳を重ねることで、よりよき来世に繋がるとします。

この「十二因縁」の考え方を手に入れたブッダ(お釈迦さま)の修行は、さらに続きます。