「森羅万象」という言葉は、日常の生活のなかではそれほど頻繁に使われてはいません。しかしこの言葉をまったく聞いたことのないという人は、それほど多くはないでしょう。
「なんとなく意味は分かるけど自分で使うことはない」「聞いたことはあるけれど日常生活ではあまり目にしない」単語であろうこの「森羅万象」の意味と、宗教ごとの解釈を解説していきます。
<日本語的な意味でみる「森羅万象」の意味について>
まず、日本語的な意味から「森羅万象」についてみていきましょう。
森羅万象は「しんらばんしょう」と読まれることが多いのですが、「しんらばんぞう」「しんらまんぞう」と読まれることもあります。
国語辞典では、この単語を“⦅「森羅」は無数にならび連なる、「万象」はさまざまな有形のものの、の意⦆宇宙のいっさいのものごと。すべての現象。-引用:角川最新国語辞典(昭和61年発行)|山田俊雄・石綿敏雄編 p527”としています。
今よりもずっと自然のコントロールが難しかったころ、人は無限に広がる森のありようを畏敬を以って眺めたことでしょう。ずっと続いていく木の本数など数えようもなかったことでしょうから、そこに「無数にならび連なるもの」の意味を見出したのはごく自然なことだといえます。
またここでいう「宇宙」は、「地球の外に広がる宇宙空間」だけを指す言葉ではありません。ここには、「無限に広がる空間」「無限につながる時間」の意味があります。限られた範囲の事物や時間、空間ではなく、もっと広く大きなものを表す言葉だといえるしょう。
この「森羅万象」という言葉がいつくらいにできたものなのか、その正確な数字を導き出すことは困難だといえます。ただ、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)という書物に、この「森羅万象」という単語が登場していることはわかっています。なお正法眼蔵とは、禅宗の僧侶であった道元(どうげん)が主体となって著わした書物であり、仏教の思想を書いたものです。
1231年から1253年の22年間をかけて取りまとめられたこれのなかに、“この森羅万象と法性と、はるかに同異の論を超越せり―引用:正法眼蔵(コトバンク「精選版日本国語大辞典「森羅万象」の解説」https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E7%BE%85%E4%B8%87%E8%B1%A1-18412
の表記があります。
そのため、今から約800年前にはすでに、「森羅万象」という言葉が使われていたことが分かります。
それ以降も、さまざまな文学でこの言葉は取り上げられてきました。
※なお実は江戸時代に「森羅万象」と名乗った劇作者や狂言師(桂川甫粲・かつらかわほさん と七珍万宝しっちんまんぽう)がいていくつかの作品を残していますが、ここではこれらは取り上げません。
<「森羅万象」という言葉を宗教観から読み解く>
宇宙の広がりやあらゆる事物を指し示すこの「森羅万象」という言葉は、「宗教」と非常になじみやすい言葉であるといえます。この世に存在する宗教の多くは、自らの宗教観や価値観でもって宇宙や事物を解釈しようとするからです。しかし宗教観が異なれば、当然ながら森羅万象に対する解釈も違います。
ここでは「仏教」「神道」「キリスト教」の3つを取り上げ、それらがそれぞれどのようにして「森羅万象」を解釈しているかを解説していきます。
※ただし同じ宗教であっても、宗派や個人によって考え方は異なります。またどのように翻訳するかによっても多少意味が変わってきます。そのためここで紹介するのは、あくまで「その宗教における解釈のうちのひとつ」と考えてください。
【仏教(真言宗)の場合は、「森羅万象とは大日如来が現れたものである」と解釈する】
仏教は非常に多くの宗派を持ちますが、ここでは真言宗の解釈を取り上げましょう。
真言宗では、「大日如来」を本尊とします。大日由来は世界のあらゆるところを残さず照らす仏であると考えられており、森羅万象もすべて大日如来が現れたものであると解釈しています。真言宗の場合は、事物だけでなく、ほかの宗派に語られている仏もまた、大日如来の化身であるとしています。
また、大日如来は、森羅万象の産みの親であるともされています。大日如来によって、森羅万象の理が生み出されたと考えるからです。
真言宗の場合は、「まず大日如来があって、この世に存在するあらゆるもの(森羅万象)はその大日如来によって作り上げられたものである」としているのです。
【神道では、「森羅万象のなかに神々が宿っている」と考える】
それでは神道ではどうでしょうか。
神道と仏教はかつては同じもの(神仏習合しんぶつしゅうごう)として存在していました。
しかし明治時代にこの2つが分かたれ、別のものとしての歩みを始めます。
現在でも仏教と神道には共通している部分がありますが、神道では「森羅万象のなかにこそ神々が宿る」と解釈しています。これは「八百万の神々(やおよろずのかみがみ。八百万の神とも)」の考え方に沿ったものであり、アミニズム(霊魂主義。自然のなかに神々が宿るとする考え)ともつながるものといえます。
神道におけるこの「森羅万象」という言葉の解釈は、日本古来の宗教観に近しいものだといえるでしょう。「お米にはたくさんの神様が宿っているから、丁寧に食べなければだめだ」と教育された人も多いと思われますが、これは神道の「森羅万象に神々が宿る」という価値観によるものだと推測されます。
また神道においては、「神々はもともと、ご神体を持たない。しかし清らかな事物に宿ることで、人にその存在をアピールしてきた」と考えています。神道における「祭り」は、この「森羅万象に宿る目には見えない神々」を、居住まいを正してお迎えしようというところからきています。
【キリスト教では「森羅万象は、すべて神によって造られた」と考える】
キリスト教では、「森羅万象はすべて神がお造りになったものだ」と解釈しています。そしてその森羅万象は、自らの親である神の意志の通りに動くものであるとしています。森羅万象と神の関係は、神>森羅万象であり、森羅万象は決して神を超えることはありません。
「森羅万象を解き明かすことなど絶対にできないと受け入れることが『信仰』である」ともしています。キリスト教では、「森羅万象を解明しようとすることには意味があるが、どれだけ取り組んだとしても森羅万象のすべてを解き明かすことはできない。また少しだけ解明されたとしても、結局はもっと大きな暗闇のなかにいることに気づかされるだろう。しかしこの『大きな暗闇』にぶつかったとしても、森羅万象を司る神は我々人間を導いてくれるのではないか」としています。
仏教でも「仏が森羅万象を造った」と考え、キリスト教でも「森羅万象は神が造った」と考えているのは、非常に面白い点だといえるでしょう。
「森羅万象」という言葉を宗教の観点から読み解こうとするとき、異なる宗教であっても似たような概念が生み出されることもあります。しかし宗教ごとによってどのようにとらえるかを踏み込んでみていくと、やはり違いがあることもわかるでしょう。
宗教には、正しい・正しくないはありません。また宗教観だけでなく、個々人の解釈によって「森羅万象」のとらえ方は異なります。しかし自分以外の万物に思いをはせ、「どう解釈していけばいいか」を考えることそのものに意味があると言えるのではないでしょうか。